朝はいつも死にたい2
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気づくと日差しが白かった。宿のベッドの中で、カリシュは目を覚ます。
刑期のような悪夢を、夢から夢へ。意識が戻ってくる頃には、体中を徒労感が支配している。
サイドテーブルの上のランプの芯から、細い煙が立っていた。今がいつだか分からない。夜でないのは分かる――ということは、朝だ。知らない内に寝入ってしまったらしい。
自分が法衣のままであることに気づき、カリシュは重い身体をゆっくりと持ち上げた。身を起こすと、頭の奥に地面を揺るがすような鈍痛が、じんと響く。思わず額に手をあてた。
(昨日は…)
夜からの記憶が繋がらない。ランプの煙に再び目がいき、自分は火をつけたまま眠ったのだと理解する。また、やってしまった。油がカラだ。
(…危ない)
一人部屋だと碌なことがないな、とカリシュはベッドの下に落ちていた靴を引きずって並べる。正しくは二人部屋だが、同室のオクタヴィアは宿に戻らない日も多く、実質一人で使っている。カリシュがこの部屋になってから、隣のベッドを同室人が使っているところは一度も見たことがない。使った形跡はあるから昼に寝ているのだろうか。生活時間が違うので会うことはあまりないし、会ったところで会話はない。
オクタヴィアは寡黙なアサシンで、自分のことを他人に理解させる気のない男だ。人間が嫌いなのだろう。気持ちは理解できなくもない。
寝起きの頭痛はしばらくたっても治まらなかった。浅い痛みに変化したものの、目の奥がいつまでも熱をうんでいる。寝ている間に体の中の水分がなくなって、不快感がどろどろになっているような感じがする。何か飲んで薄めなくては、と思った。普段は目を瞑っている自分の中の不都合を。
煮詰まって、濃くなって、咽喉の奥に、体中の血管に、つまってしまう前に、薄めなくては。
立ち上がって、テーブルの方を見た。水を飲めばいいのだが、今この干乾びた体にいきなり真水を注ぎ込んだら、急なギャップに身体が委縮しそうだった。ぼんやりとした吐き気の中、なにか他に、とあたりを見回して、ワインボトルを見つけた。それで昨夜のことを思い出す。
夜、それを飲んだ。赤ワインだ。酷い安酒で、妙な後味がした。飲み進めているうちに段々具合が悪くなってきたものだから、酔い覚ましに外でも歩こうと思って、服に袖を通して。そこからは覚えていない。クソみたいな記憶だった。
(何やってんだ)
眠れないから飲み始めた酒だった。しかしこんな風に効けとは誰も思っていない。まったく、思うようにいかないことばかりだ。ただ普通に憂いなく過ごしたいだけだというのに、生活はこれほどまでに困難か。結局、水と酒とどちらを飲むべきかと数秒悩んで、どちらも適していないとカリシュは部屋を出る。食堂に降りれば何かあるだろう、とドアを閉めた。
宿屋の階段を降りると、一階はほとんどが食堂だ。ギルド狩りでもないかぎり、そこに誰かギルメンが一人か二人はいるのが常だった。その日はたまたまディーユがいて、カリシュは彼の真向いに腰を下ろした。
「おはよう。早いじゃねえか」
声をかけられて、カリシュは食堂をちらっと見渡す。確かに人が少ないようだった。早いのか。
「なんか欲しいもんある?」
突然ディーユにそう問われて、カリシュは視線を戻す。意味は分からない。けれど、欲しいもの、と聞かれれば。
「……美味いワイン」
「朝からァ?」
彼は朝食のことを聞いたのだ、とそこでカリシュは気づいて、言葉を選び直す。
「同じのでいい」
「同じのね」
ディーユがカウンターに向かって何点かメニューを叫んだ。奥からは「はいはーい」と宿屋の娘の声が返ってきた。それきり、話すこともなく、カリシュはしばらく人の少ない食堂のテーブルに差し込む太陽の線を眺めていた。ディーユは何か書き物をしているようで、ノートを見ながら、紙に羽ペンを走らせている。
「なんでワインよ」
手を止めず、顔も上げないまま、ディーユがそう尋ねた。カリシュが答えずにいると、ディーユはまた同じような調子で質問を続ける。
「赤? 白?」
「……赤」
「じゃあゲフェンだ」
あたり?とディーユが視線を上げて寄越したが、当たるも何も正解なんてない。
「ゲフェンは美味いのか?」
「あれ。なんだ、探してんの?」
探しているわけでもなかった。ただ、あるなら欲しい。今の自分が一番『欲しいもの』は、朝食ではなく、よく効く酒だ。そんなものが、と、幾分か自虐的にカリシュはため息をつく。
「ご希望あるなら、仕入とくぜ」
変わらないスピードでペンを紙に走らせながらディーユがそう言った。
「……そんなこともやってんのか」
「まあ、ワインなら、ツテあるし。銘柄は?」
「……特にない。というか知らん」
「じゃあ、どういうのよ。甘いとか渋いとか深み重視とかフルーティーとか」
いろんな要素を提示されて、カリシュは答えに手間取る。入眠用なので、白ワインのように後味が辛いものでなければなんでもいいと思っていたから今まで適当に赤を買っていたが、昨夜のことを考えてみると寝る前に飲むのに向き不向きがあるのかもしれない。甘い? 渋いよりはいいか? フルーティー? 不味くなければ別にどうでもいいのでは? 軽くて、がぶがぶ飲めて、ぱたんと眠れるような……。
しかしカリシュの思考はまとまらない。いい言葉が浮かばず、それをまとめる努力に意味も見いだせず、そのうち投げやりな気持ちに口元が支配される。だからいつも結果的として、口をついて出る情報は、おざなりになってしまうのだった。
「適当でいい」
「はいはい」
ディーユはそれを知ってか知らずか、快く、且つ適当な返事を軽くしてみせ、ペンを置いてページをめくった。
「まあ、今夜はたらふく飲めるしな」
「……?」
なんのことか分からずカリシュが眉を寄せて顔を上げれば、それを見たディーユが「おいおい」と浅く笑う。
「忘れてねぇよな。歓迎会、今日だぜ」
「誰の」
「マジかよ。いい加減、ボケっとしすぎなんじゃねえの?」
いっそ心配だよ、俺は、と嫌味のきいた口調で、ディーユはカップに手を伸ばす。
「歓迎会って言ったら、新入メンバー以外あるか?」
「……ああ」
新入。そういえば、なんだかそういう事をイアーゼが言っていた気がする。新しくギルドに数名加わる冒険者がいるから、顔合わせがどうのこうのと。カリシュの仕事は、広報でもなければ幹事でもないから、新メンバーには全く関わっていない。新人の職業さえ聞いていなかった。今日だったのか。
「もう今朝さっそく、狩りに行ったってよ」
ふぅん、とカリシュはおざなりな相槌を返す。
どうだっていい。それよりも、頭が痛かった。悪質な睡眠のせいで、息をするのも気だるい。
メンバーが変わろうが増えようが、日銭を稼ぐだけの冒険者家業だ。
ウェイトレスが朝食をカリシュの目の前に置いた。サラダとベーコンとスクランブルエッグ、それにクロワッサンが乗ったプレートだった。
代金をテーブルに置く。ウェイトレスがそれを回収する。それから大きく、カリシュは息をつく。
金を出したからには食わないと、とは思う。しかし、手が伸びない。
(…………)
紅茶にすればよかった、とプレートを眺めながら、カリシュはぼんやりと考えた。
コーヒーは今の胃に、とどめをさしそうだった。