朝はいつも死にたい1
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教会を出た頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。西の空に太陽の余韻さえないことを確認して、カリシュは眉間に寄せた皺もそのまま黙って歩き始める。終わらない仕事に憔悴し、逃げるように飛び出てきた教会だったが、振り返れば寒空の下の教会の橙色のランプたちはまるで暖かで家庭的な灯火のように見えるのだから恐ろしい。こんなのは異常幻惑だ。暗くて冷たい首都の闇夜。冬のプロンテラはときどき、死者の街ニブルヘイムのように化け物じみている。気配ばかりで人影がなく、妙に静かで薄ら寒い。どうしようもなく突き放したような暗さだ。
カリシュはこの季節の冷え込みが嫌いだった。寒さで手先が痛むのが厭わしい。気温が下がれば必然的に着込む服の量が増えて、布が身体にまとわりつく。動きが制限されているようで重苦しいかった。秋の終わりからの閉塞感が続いて、どんどん自分の周囲にある空間が狭くなっていく。体の芯にしこりができて、そこから段々と肉が固まっていくような錯覚さえする。圧迫からの解放を待ちわびているのに、一向に春の兆しはない。もう何十年も冬みたいだった。
いっそ、凍る前に石化してくれ、と投げやりに思考した言葉を歩き行く道端に捨てる。乾燥した空気の中では、石畳を歩く靴底の音がよく響いた。
わずらわしいのが、苦痛なのだ。教会の仕事など、引き受けるんじゃなかった。結果的に内臓を掻き回されるようなストレスを与えられただけで、何の成果もなかった。
寝苦しいのは暇なせいだと思ったから――何か手仕事でも、と教会の伝手を当たったのはどう考えたって間違いだった。悩まされる苦痛が増えただけで今でも寝つきは悪いし、相も変わらず夜はちっとも休まらない。寝ても寝ても回復した様子のない精神に、心はとうの昔に根をあげていた。
休みたい。どうすればいいのか皆目見当も付かないが、一晩でいい、休みたい。心の底から安堵して眠りたい。いっそ、安らかに死にたいと、言い換えてしまったっていいのかも知れない。
いや、何を馬鹿な。疲れている。
(……今更、死んでどうする)
明確な理由は分からないが、そんな言葉が胸に浮かぶ。今更。
(今更……?)
ではどのタイミングなら、死ぬのに最良であったのか。カリシュは自分のその瞬間の心当たりを探す。
直近では、クトノに振られた。長年、相方であり、別れたり寄りを戻したりを繰り返していた元恋人が、完全に自分から離別して、別の人生を歩み始めてしまった。
確かに明確な絶望の一端ではあるが、しかしそんなことで命を絶つのかというと、それほどの苦痛ではないように思える。これで死ぬのであれば、たぶんとっくに死んでいるべき出来事が他にある。
例えば、ラズライドが行方不明のまま死んだとき。
いや、彼は本当に死んだんだろうか。分からない。死体を見たわけではないし、葬式もなかったから、いまいち実感が沸かない。たぶん死んだんだろう。彼にはもう永遠に会えることもなさそうだ。
ただ、それで彼の後を追って死んだりはしない。そう望んでもいない。かなり衝撃的な事件だったが、これも違う。
もっと、具体的な絶望はないのか。
親が、幼児だった自分をイズルードに捨てたことか。あれはさすがに最悪の絶望だろう。記憶にはほとんどないけれど。親の顔も碌に覚えていないけれど。絶望したのかどうかも、何も定かではないけれど。
もうだめだ。絶対に、自分の人生には複雑な絶望が何度も訪れていたはずなのに、記憶を掘り返しても明確なポイントが見つからない。核となる原因もなく、客観的な説得力もなく、主体的な実感もないまま、ただ最悪だ。
絶対に碌でもない、徒労にまみれた、鈍重で無味乾燥でゴミのような人生だったのに、その根拠が上げられない。
死ぬべきだったタイミングすら分からない。
最悪のピークが、今ではないことだけは間違いない。もっと大きな苦痛はあった。だから、今この瞬間は、死ぬべきでない。ここがピークであってたまるかという想いすらある。
今更であるけれど、今ではない。今は、もう遅い。もう、死ぬに値する理由さえない。こんなところで、今更死ねるか。
(クソ。仕方ないだろ)
カリシュは自分自身に八つ当たりするように、重い身体を引きずって歩を速めた。行き先は決まっている。真っ直ぐにギルドの宿屋へ。そこに帰って、誰にも会わないまま自室に入り、衣服を脱ぎすてて、冷え切った布団の中で、眠ったまま疲れていく。こんな寒い中 苦痛になってまで歩いていく先の目的としては、期待もできない空しいだけの結末だ。
今の自分がそうしたいわけじゃない。
しかしそうするより、他にないのだ。