朝はいつも死にたい4
夢だ。
真っ暗な中、次々に書類を渡される記憶が混雑する。
『じゃあ、サインを』
『サインをお願いできますか』
『ここにサインをくださ』
『サインする箇所は全部で三箇しょの』
「お前、ちゃんと読んでんのかぁ?」
突然、聞きなれた声がこちらに問いかける。ああ、クトノだ。しかしはっきりとは聞き取れない。他にもいろいろな声がする。目の前には書類がある。自分は、これを埋めなければならない。彼が前から説明する。
「そもそも、正式な書類にはフルネームで書かなきゃいけねえんだよ、っていうか本来なら保証人の欄にはちゃんとした後見人をだな、いや、名付け親だよ、ゴッドファーザー、普通ならお爺ちゃんとかお婆ちゃんとかあたりじゃねえの、司祭様ってのもあるけど、お前はそういうガラじゃ、いや、そうか、そういや、お前…」
孤児だったな、と気まずそうに視線をそらしたクトノが、突然、もやがかかったように手元から離れていく。どこからともなく聞こえていた声は次から次に重なっていくのを感じる。
「本来なら、ちゃんとした後見人になって」「家格が違う」「養子縁組を」
どの声も明瞭だが、何一つ最後まで聞き取れない。しかし聞き慣れた、いや聞き飽きた単語ばかりだ。聞かずとも分かる。
「父方が代々教皇の家系で、母方が大臣の」「しかるべき道だった」「母方の祖母が」「ちゃんとした親もとの」「エルフなんです」
エルフ?
疑問が浮かんだ瞬間、急激に意識が引き上げられるように覚醒した。
「………」
あまりに酷い痛み方をする頭をかかえて、カリシュはゆっくりと起き上がる。朝だ。一番初めに目に入ってきたのは、ベッドのサイドテーブルに置かれた、まだ煙のたなびくランプ。
昨夜の記憶はない。頭痛に加え、吐き気まで催してくる。夢見が良くなかった。いや、近頃は夢見が良かった日なんてない。ランプの煙を見ながらカリシュは眉間に皺を寄せる。またオイルがカラだ。
(咽喉が…)
干乾びそうだった。身体の中の不快感が、また、濃くなってきている。早く、水で薄めなければ、とカリシュが足元の円卓に目をやれば、そこにはワインボトルが一本だけ、置いたままになっていた。また、だ。
(……酷い酒だった)
昨日持ってきたワインも、クソみたいな後味の赤だった。あれなら寝なかったほうがマシだったかと思えるほど、嫌な酔い方だ。気を失うように眠ったのだろう。いやむしろ、眠るように気を失った。頭に一撃を食らった脳震盪から復帰した後みたいな、ガンガンと重い頭痛が後頭部を襲う。
吐き気と頭痛を堪えながら、飲料を求めて、カリシュは食堂に下りる。
下階では、いつもの朝の光景が広がっていた。何人かギルドメンバーが朝食を取ったり雑談をしたり。カリシュは、階段から近くのテーブルでいつものように朝の書き物をしているディーユを見つけ、その前に立った。気配に気付き、ディーユが顔を上げる。何かを察した彼は、カリシュに尋ねた。
「今日は何がお望み?」
カリシュは座りながら答える。
「美味いワイン」
ディーユは後ろを通りがかったウェイトレスに「エスプレッソ、ふたつ」と頼む。
「ご機嫌ナナメだなぁ。ここ最近お前の笑った顔見てないよ」
ディーユが台帳に数字を書きながら顔を上げずにそう言う。カリシュの後ろにクロウが立つ。
「俺もあと百年は見れそうにねーよ」
片方の肩にタオルをかけたままのクロウが、おざなりに席についた。
「っていうか、起きてんのな、お前。ぜってー聞いてねえと思ってた」
「何が」
カリシュがそう尋ねると、テーブルに倒れるように体重を乗せたクロウが不可解そうな声を上げた。どうやら寝不足のところを、シャワーで無理やり起したらしく、彼はカリシュ以上に不機嫌だった。
「ハア? 狩りだよ、狩り。ヒヨコと」
「ヒヨコ?」
意味が分からず聞き返す。けれどクロウが説明する前に、ディーユがその言葉を拾った。
「でも今回の新人、全員結構、動けるぜ」
それでカリシュは、新規ギルドメンバーのことをようやく思い出した。狩り、というと、彼らと一緒にいく狩りのことだろうか。クロウの当初の予測通り、カリシュはそんな話に聞き覚えがない。昨日の夜か。適当に返事をして、さっさと部屋に帰った記憶だけがある。
「プリからしたら、子守りなんだよ」
クロウは不服そうにカリシュへ「お前、今日、前出んなよ」と忠告した。
「ってゆーか、支援やれ、支援」
クロウは相変わらず、滅茶苦茶な機嫌のこじらせかたをする男だ。どうやったらこれを適当にいなすなんて芸当ができるのか、カリシュには見当もつかない。相方のディーユがいつものように、いとも容易くそれをやってのけるのをただ待つしかなかった。早くしてくれ、面倒だ。
テーブルから視線を逸らせていると、ウェイトレスがカップを二つ、こちらに持って来るのが見得た。
「は~い、ディーユ、おまちー」
「わあ、いい匂い」
クロアがディーユの後ろから声をかける。クロアの隣にはフィオナがいる。二人とも、職業服をきっちり着こんでいて、朝の準備は済んでいるようだった。
「そうか、エスプレッソあるんだね、ここ」
「美味いよ、ここの」
ディーユはそう言って、丁度いま来たふたつのカップを彼女らに譲る。
カリシュは目の前のコップがトレイごと持ち上げられ、フィオナに渡されるのを眺める。
「え、いいの?」
いいわけない。けれど、自分が頼んだものではないから、決定権がなかった。もうどうでもいい。カリシュはあきらめて一度浅く頷いたのち、視線をそらした。コーヒーの残り香だけが鼻孔をつく。いや、飲まなくてむしろ良かった。今日こそ紅茶にすればいい。
・・・
戦闘中、何度かちらっとフィオナがこちらを見たのが分かった。それはカリシュにとって物珍しい視線だった。戦闘中に、誰かから気にかけられることなんてほとんどない職業のはずだが、彼女はなにか気にする理由があるらしい。位置関係を確認するのに顔を見る必要はないだろう、と疑問に思う。
「クロウが前に出るから戸惑ってんだろ、彼女」
モンスターに応戦しながらも、ゼウェルが軽口をたたく。
「どっちが殴りプリだったっけ、って」
支援型のプリーストであるクロウと違い、バランス型のカリシュはいわゆる中衛だが、このギルドにおいては後衛の護衛役といってもいいポジションにいる。必然的に立ち位置は中央より後ろ――本来なら支援プリーストのいるべき位置だ。対して、クロウはアサシンと騎士に交ざるかなり前よりの位置に身を置くことが多い。普通は近距離攻撃の役職のポジション。一般的な見解でいうと、自分たちの位置は見事に逆だった。
「どっちって、見りゃ分かんでしょ」
手元の矢を持ち替えながら、背をこちら側に預けたままルカが言う。
「っていうか、あのWIZも、もっと後ろに下がらせなきゃ。イアーゼさんに引っ張られすぎ」
同じく後衛職であるウィザードのイアーゼも、何故か前寄りに出ていく傾向にあるため、このパーティーの位置関係は独特の配置になっている。
「俺らはこの人が五歩で飛び出せる範囲にいなきゃ」
ルカはカリシュのことを指しながら、どこか投げやりな調子で言った。
「ゼウェルさん、あのWIZ呼んできてよ」
「ざけんな、そん」
「俺、罠あるもん」
ルカが、仕掛けたトラップを顎で指しながらゼウェルの言葉を遮る。ルカはギルドのハンターの中でもトラップを置くのが上手いし、その場所にモンスターを弓の攻撃だけで誘導するのも上手い。そのことについて、ゼウェルも充分彼の腕を認めていたようで、「俺だってあるよ!」と負け惜しみのように声をあげながら、結局彼が新人のウィザードを呼びに行った。
「殲滅力は高い」
少し間を置いて、ルカが呟いた。矢を休むことなく射る彼は、カリシュの顔を一度も見ない。カリシュもモンスターを殴り飛ばす作業があるので、意識の半分でしかパーティーを見ていないが、ルカの視線はいつだって手元を真剣に見ている。
「でも、後衛過多だよな。だからプリが前に出んだよ」
独り言なのだろう。カリシュは返事をしなかったが、彼もそれを求めなかった。
「ま、今更、前後変わられてもな。俺は、アンタのやり方のほうが好きっすよ」
罠を仕掛けるのにうつむいたままのルカが、今度は明確に自分へ向けて言ったとカリシュには分かったが、特別、返す言葉もなかったので、やはり返事はしなかった。相手もそんなものはさっぱり求めていないようで、ちらりとも視線を上げなかった。
やはり普通、視線は合わない。
狩りの休憩中、水でも飲もうかと荷物のところにカリシュが寄ると、水筒からコップに水を注いでいた先客が、フィオナだった。彼女はカリシュに気づくと、手に持っていたコップを「はい」と渡して、自分は新しいものにまた水をつぎ始める。水を受け取ってしまったカリシュは、礼を言うタイミングを完全に逃してしまい、その場に数秒、留まった。
「すみません、私、前行き過ぎちゃってたみたいで」
フィオナは水筒の大きなふたをぎゅっと閉めてから、コップを両手で持ち直した。
「いや」
「途中で、もっと後ろかなって思ったんですけど、でもあっちはハンター陣なのかなって」
軽木製のコップがしっかりと茶色に見えるほど、フィオナの指先は白い。そういう体質だと冬場は赤くなって大変だろう。末端は特に冷えやすくなる。カリシュは耳先を見た。まだ白い。
「前もって確認すればよかったですね」
「特殊な陣形だからな」
確認を取るのだとすれば、ベテランのこちら側からするべきだった気がした。いつも適当に狩りに出かけ、土壇場で配置を決めてしまうので、綿密な打ち合わせというものとは程遠いギルドだが、新人のいる場でのそれは、自堕落というより怠慢だ。
「後で教えてもらえますか?」
「ああ」
カリシュはぼんやりと、あのハンター二人にウィザードが加わった後衛の戦闘パターンを考える。おそらく自分の守備の範囲に三人を置けるだろう。流れた敵は中衛のディーユがなんとかしてくれる。
「ふふ」
フィオナが突然微笑んだ。カリシュはそれに気づき、彼女と目を合わす。
「いや、そんなに珍しいのかなって」
「?」
「耳」
彼女が口元を手で押さえながら、なぜだか楽しそうに笑う。言われて、カリシュは今自分がぼんやりと眺めていたのが彼女の耳だったことに気づいた。そういうつもりは、と否定の言葉が浮かんだが、改めて見ると彼女のそれは、やはり不思議な形をしている耳だった。
「初めて見た」
「そうなんですか?」
根元からゆるくカーブし、あとはすらりと長く伸びる。先端は丸く尖って、浅い弧を描きながらまた付け根まで。まるで、風切り羽みたいなフォルムだ。エルフという種族のことは知っているが、直接会ったことはない。いや、大都市プロンテラで何年も暮らしているのだから、まったく見ないなんて事は無かっただろう。そう考えてみると、確か、男だったら見かけたことがあったような。ああ、いや、女もあっただろうか。あったような気もしてきた。記憶は曖昧だ。
「嘘だな」
「え?」
「見たことはあった」
カリシュが訂正すると、ウィザードの彼女は「ええ?」とおかしそうに肩をクスクスゆすった。
「触ったのが初めてだ」
へ、フィオナが声を止める。形状は違うものの、まったく普通の耳の感触だった。軟骨が入っている。カリシュの指先の、記憶は新しい。どうしてだか、ずっと見ていたとしても、飽きる気はしなかった。
「触ってもいいか?」
「はえ?」
次に彼女はおかしな声を出した。口元の笑みがぎこちなくなる。駄目なようだ。
(そうか)
惜しいな、と、なんとなくそう思って、手元にあったコップの水をいっきに飲み干した。
「あの、ここでは…」
ぽそり、と、聞き洩らしかけるほど小さな声で、フィオナはもごもごと答えた。
「え?」
思わずカリシュが尋ね返すと、フィオナは小首を傾げながら、
「宿に…、帰ってからにしてくだ、さい…?」
と、そう、本人も自身の返答に違和感を覚えているような、よく分からない顔で言った。
社交辞令にしたって、確かによく分からない答えで、カリシュも真意をはかりかねたが、真に受けないほうがいい言葉なのは明確で、「ああ」とだけ返事をして、その場ではコップを片付けた。彼女との会話はそれで無事に終わったようだった。