朝はいつも死にたい5
5
「おらよ」
夕食後、部屋に帰ろうとしていたカリシュの目の前にドンと置かれたのは、深緑のガラスのワイン瓶だった。ギルドの宿で狩りの後には恒例で行われる晩餐が、そろそろ酒を飲むだけの打ち上げに移りかけた頃合いだった。切りの良いその隙に部屋に帰るはずだったのに、そのワインが見事にタイミングの邪魔をした。
「……」
突然目の前に物を置かれた不快さから眉を寄せたままカリシュが顔をあげれば、置いた本人であるディーユは自慢げに隣へと腰掛けて肘をつく。
「お望みのブツだろ」
「何が」
短く尋ねると、ディーユが浅く笑いながらワインを紹介でもするように片手を流した。
「ご注文されました、ゲフェン産の『適当な赤』でございます」
何を言っているんだこの男は、と思ったが、記憶がそこまで耄碌しているわけもなく、心当たりはさすがにあった。しかし本当に持ってくるとは、と、カリシュは瓶を掴む。銘柄が読めない。ラ、ボルド……――いや、どうでもいい。
深酒をしない方のギルドの連中が次々と帰ってくその流れを逃したくなかった。瓶を掴んで、カリシュは立ちあがる。「代金は今日の分から引いとけ」と目の前のブラックスミスに告げると、「もう引いたよ」と煙草に火をともしながら彼は言った。勝手な男だ。
「えー? カリシュも帰っちゃうの~? もっと飲もうよぉ」
後ろからシェインの声がしたが、振り返れば面倒だ。カリシュが普段から宴会の類いは長居しないのを知っているはずのあのプリーストが引き止めてくるのだから、あれは相当に酔っている。顔を合わせずにカリシュは階段へと向かった。「まあ、まあ」と彼女をなだめる騎士の声が続いて、強引に連れ戻されることはなさそうだった。
冗談じゃない。早く帰りたい。帰って寝たい。眠れないだろうが、早く帰って寝たい。これ以上、こんな疲れるところに居たくない。何かに急かされるようにカリシュは部屋へと戻る。
階段を上りきった二階の廊下で、ギルドの新しい顔が二人、立ち止まって話していた。片方は背の低いクセ毛の男ウィザードで、もう片方はあのエルフ耳の女ウィザードだった。本の受け渡しをしているようだったが、気にせず通り抜け、部屋のドアを開けたところで、「あ!」と言う声に止められる。
まだ何か、とカリシュが眉間を寄せて振り向くと、エルフ耳がぴんとはねたまま、フィオナがこちらをまっすぐに見ていた。
「待ってください」
両手で本を抱きしめ寄ってきた彼女が、あのですね、と話し始めたのを見てから、カリシュは視線を床に落とした。意識しないとすぐ耳に目がいく。
「昼間に言ってたことなんですけど、あの、今からお願いしてもいいですか」
今度は心当たりのない話だった。ウィザードの言葉の意味も分かりきっていないうちに、彼女は後ろのクセ毛を振り返り、「ジェンも聞く?」と尋ねたが、男は軽く首を振って自分の部屋に戻っていった。すんなり帰れる奴はいい。
「陣形のことです」
フィオナは本をぎゅっと握ったまま前のめりでカリシュにそう言ったが、それでも何のことかまるで身に覚えがない。頭ひとつぶんぐらいは背が違うのに、こちらを見上げさせるのが酷なほどまっすぐにこちらの顔を見てくるウィザードだ。
「相談させてくれるって……」
「……ああ」
そんな話もしたか。またここにも、こちらの話をまともに取り合ってくるやつがいるのか。少し考えたが断るためのまともな理由が思い当たらなかった。考えることも面倒になって、カリシュは部屋のドアノブを回しながらおざなりに答える。
「部屋でいいか」
彼女がそれに難色を示せば今日はここまで、と話を区切るつもりだったのが、フィオナは元気よく「はい」と返事をした。夜に男の部屋だ。正気なのかなんなのか、話が読めない。カリシュはそのまま開けたドアを彼女に譲って、部屋に入っていく後ろ姿をかける言葉もなく眺める。なんなんだ今日は。というか、もう、最近、なんなんだ。どうして誰も寝かせてくれない。いや、何をやったってどうせ眠れないんだから、もういっそ、何がどうなったって構いやしないのか。どうにでもなれ。
それでもドアを少しだけ開けたままにしておいて、カリシュはテーブルにワイン瓶を置く。部屋のランプを灯しているあいだに、ワインの瓶を見ていたフィオナが顔をあげた。
「ラヴォルダージュ」
微笑んだウィザードが、知らない単語を口にする。首を傾げると、フィオナはワインに視線をやってから、またこちらを見て笑った。
「ゲフェン産です」
「ああ」
聞いたことのない銘柄だった。カリシュが知らないということは、そのワインは、今までに飲んできた最悪に不味いワインのうちのひとつではない、ということらしい。それ自体は喜ばしいことだ。過度に期待しなければ。
「ワインお好きなんですか?」
「まあ」
好きでも嫌いでもない、というような返答をしたら、またその理由を説明しなくてはいけない。彼女はまだ、他のギルドメンバーのようにカリシュを知る人間ではないから、話が面倒だ。
「じゃあ次は、お礼にワインお持ちしますね」
次? 予想外の言葉にカリシュは思わずフィオナの顔を見た。
「あ、でも今日は、何もないんです……」
そもそも、自分たちは今から何の話をするのかが分からない。その次があるのかも。ギルドの陣形の話をカリシュに持ち掛ける人間なんて、今まで一人もいなかった。このウィザードは何かとんでもない勘違いをしている。
「ふふ」と、また、唐突にフィオナが笑った。
我に返って目を合わせると、笑ったままの彼女が口元に手をあて、首を傾げた。
「……触ります?」
そう言われてまた、自分が見ていたものにカリシュは気づく。くすくすと、フィオナは困ったように笑っている。
耳だ。
気づくと見ている。
「悪い」
すぐに視線を床にそらし、カリシュはそれを詫びた。
「いえ、でも、そうですよね」
フィオナは笑ったままのようだった。
「約束でしたもんね、耳も」
「……」
――……。
そういえば、そんな事も言った、とカリシュは思い出した。しかしそんな話すらまともに取り合ってくる彼女に、驚いて声も出ない。
フィオナはそのとがった耳の先だけを少し赤くしていた。
なんだか、眠らなくてもいい気がした。
少なくとも、今すぐには。
しばらく、起きていられる。
そう、ぼんやり、耳を眺めながら思っていた。
「ワイン」
カリシュが口に出すと、フィオナは「ん?」と首を反対側に傾げなおす。
「開けるか?」
フィオナは目を二度まばたきさせたが、「グラスがないので、今日はいいです」と微笑んだ。
「それより、カリシュさん、お話きかせてください」
彼女は本の中に挟んであった紙を取り出し、テーブルに広げた。カリシュは彼女の話を少しは真面目に聞くつもりで、その紙を見下ろした。フィオナの話が始まる。
彼女が喋るたびに、金色の髪の毛から、耳がちらちらと顔をのぞかせていた。
話の間中、どうしてもそちらに目がいった。