飴色と橙

  飴色の床だ。フロアの木材が、夜の闇の中で、ろうそくのわずかな灯りをあびて静かに光っている。夕方降った雨のせいで、プロンテラ中の石畳は深く濡れ込んでいたが、宿のドアを開けてもまだこの濡れた床が続いている。雨夜とはいえ、床がここまで水浸しなわけはなく、きっと昼の間にオイル掛けの職人が入ったのだろう。自分の住処が、いつ、どのような人によって、どのような手入れをなされてるのか、ただ金を払って住んでいるだけのオーフェンには知る由もない。それを手配している人間にも、心当たりすらない。ここには夜戻って眠り、朝起きて出ているだけになっている。

 杜撰だ。多くの人間が、首都ではこんな暮らしをしていると知ってはいるが、興味がない者と御座なりにしている者には、同じ暮らしだとしても明確な違いがある。この杜撰さは、いずれ自分の人生にも返ってくる。そのつけをいつか必ず清算しなければならないだろう。自分はそれを先延ばしにしているだけにすぎない。

 

 オーフェンが宿に帰って来た頃には、日はもうどっぷりと暮れ、街のほとんどの機能はシャットダウンしていた。初めのほうこそ、仕事が遅くなることに対して疲労感や焦燥感のようなものが多少あったが、常態化した今となっては過労に今さら何かを感じることすら億劫だ。秋も近づき、酷な日差しから解放された体は、痛みに悲鳴を上げることもなくただ黙ってそれに耐えている。過ごしやすい気候というのは、生ぬるい毒だと思う。

 手入れによって軋みがましになった廊下を歩き、自室のドアに鍵を差したところで、その感覚にわずかな違和感があった。オーフェンは、無意識に動かしていた手をふと止め、歩いてきた廊下を振り返る。人の気配はなかった。もう一度見上げた部屋の場所も、間違いなく自分の部屋だった。しかし、鍵が開いている。

 プリースト法衣の懐に鍵をしまい込みながら、オーフェンは慎重にドアノブに手をかけた。ゆっくりと回し、ほとんど音も立てずにそれを押し開く。

 

 部屋の中には灯りがあった。ランプの赤く薄暗い光だった。部屋に一つある小ぶりのダイニングテーブルに、人影があった。淡い髪が、首元で真っすぐ切りそろえられた、丸い頭。ファーのついたウィザードのローブに、高く組まれた脚。

「……ロゼッタ?」

 オーフェンが声をかけると、彼女は顔を上げてゆっくり笑みを作った。

「お邪魔しているよ」

 部屋には、彼女のオーデコロンの香りが本と湿気に混ざって、かすかに漂っていた。

 このウィザードとは今日も会ったばかりの仕事仲間だった。彼女との仕事は夕方には終えたはずだ。オーフェンは入ってきたドアを振り返り少し躊躇ったが、それを静かに閉めた。

「驚かせて、悪かったね」

「用件は?」

 手に持っていたランプを壁にかけ、オーフェンは彼女を振り返る。ロゼッタは脚を組み替えてから、面白そうに笑った。

「『どうして?』や『どうやって?』は、聞かせてもらえないのかな」

 アイスブルーの髪が、彼女の頭の動きに合わせて揺れた。その不思議と明るい橙色の瞳が好奇心に満ちていた。

「失礼。どうして君がここに?」

「先に、どうやって、のほうが良かったな。答えは、特にひねりもなく、管理人というわけになるけれど」

「そうか。それで、どうして」

「急かさないでよ、オーフェン。何か飲むのはどう?」

 オーフェンは、入り口から一歩も動かずに彼女を見ていた。それ以上、距離を縮めるのは得策ではないように思われた。窓の外は、確かめるまでもなく夜だった。

 ロゼッタは、頭の切れるウィザードの女だ。攻城戦の噂を聞きつけて、自分たちのギルドにやってきた。数か月前に入ったばかりだというのに、その手腕と人柄で今では幹部同然の仕事をこなしている。彼女は野心家で、タフで、けれどどこか気品のようなものを備えている、珍しい女だった。いずれ彼女が望むなら、傘下のギルドの一つ預けてもいいと思えるほどに、オーフェンは彼女の能力を評価していた。しかし彼女は管理より前線を走りたがるタイプだから、仕事をするなら本部がいいと言うだろう。

 よく二人で仕事をしたが、プライベートでの付き合いはなかった。そんな名称を付けられるほどの余暇がお互いほとんど無かっただけとも言える。

 この場で起ころうとしている全てのことに、オーフェンも流石に気づいていた。

 けれど、自分の性的嗜好についても、人生と同じくひたすら億劫に思っていた時期だった。彼女に対して沸き上がっていた感情は、確かに申し訳なさや失望感の形をしていたのにも関わらず、それを感じる自分の器官は、すべて何の機能も果たしていなかった。

 

「ワインはない。ウィスキーも、飲まないんだ」

「ブランデーも?」

「あいにく、無趣味でな」

 ロゼッタは、入り口からてこでも動かないこちらの様子をしばらく眺めていたが、やがて堪えきれないという風に、声を上げて笑った。

「悪かったよ、よして、そんな生娘みたいに。私が悪かったよ、手順を踏まなかった」

 彼女は完璧な陶器みたいな頬に手をつき、肘に頭の重さの半分を預けながらこちらを見た。その仕草だけでも、こちらの怒気をすべて払い去り、流して一息つかせるのには十分な魅力だった。そして、それを彼女自身も理解している。

「はじめは、ベッドに裸で潜り込もうかと思ったんだ。そうしなかったんだから、少しは許してほしいな」

「俺は、なにか君への態度を間違っていただろうか」

 ロゼッタはころころと笑う。虹彩だけがやけに明るいオレンジで、瞳孔は真っ黒の、惹きつけられる瞳だ。おまけに冬の澄みきった空のような髪。やっかいな色の取り合わせだ。

「いいや、ひとつも。私たちは正しく友人だ」

「三分前まではな。そして君が、あと三分でこの部屋を出てくれたら、その時にまた正しく友人になる」

「私が、間違った仲を望んでいるとしたら? オーフェン」

「文字通り、間違っている」

「ふふ」

 彼女はまた、そのすべらかな脚の上下を組みかえた。柔らかな肌の摩擦の音が、まるで部屋に響くようだった。

「どうして? オーフェン。職場恋愛は犯罪じゃない」

「俺に君は抱けない」

「誰なら抱けるの。マシュー?」

「そんなことは起こりえない」

 オーフェンは声色を特に変えずに、短く言った。意図通り、少しだけ、質量のある沈黙が二人の間に置かれたようだった。しばらくはロゼッタの顔を見て、それからゆっくり視線を外した。

「正直言って、君のことは尊敬している。俺は時間に流されているだけだが、君は前に進める力がある。こちらが忠告できるのは、君の目の前の男が見積もりより低い価値しかないことぐらいだ」

 ロゼッタは、表情の読み取れない顔でじっとオーフェンを眺めていた。橙色の瞳だけが、すべてを覗き込むようなまっすぐさでこちらを見ている。

「君に恥をかかせたいわけじゃない。俺の態度が誤解を生んだのなら、日頃の行いは改めよう。俺は不能だと、そこらじゅうに言いふれまわってくれても構わない。どうしたら、この外れたレールを元の場所に戻してもらえるだろうか」

 言ってしまってから、ひどく愚かなことを言ったような気がした。ロゼッタはそれを笑わなかった。

「まったく同じ位置に、ということはもう難しいかもしれない。スカウトがあった」

「……引き抜きか?」

 オーフェンは顔を上げる。

 ロゼッタは目をそらさないまま、こちらを見ていた。彼女の瞳はいつも真実しか見据えない。

「よく考えてみて、ヴィアで真剣にやり残したことが、これぐらいしか思い浮かばなかった」

 ロゼッタの言葉に、偽りがないことはすぐに分かった。そして彼女がほとんどの決断を終えていることも、こちらが最後に交渉できる材料がこれしかないことも、そのことを彼女自身が分かりやすく提示しているだけにすぎないのだということも、オーフェンには分かった。

 手間を省いた切れ味の鋭い彼女らしいやり方だった。

 

「俺は、君をベッドで引き留めるようなことはしたくない」

 ロゼッタは、どこか困ったように笑った。

「そうじゃないよ。ねえ、オーフェン。結婚しないか。抱けなくていい」

 

 岐路だった。

 ここは、岐路だ。今がそうだ、という直感がオーフェンにはあった。

 けれど同時に、驚くほど自分は、この岐路の重要性を感じていない。理解しているが、分かっていない。ロゼッタの橙色の透けた瞳が、宝石のように煌めいている。その価値が分かるのに、それに心がまったく動いていない。

 感覚が、働いていない。

 

「ブランデーを買ってこよう。そして、それを一緒に飲む。その後で、引き抜きの条件について交渉させてくれ」

 

 ああ、分かった、と彼女は言った。

 オーフェンは部屋を出て、また飴色の廊下を歩いて夜のプロンテラの街に出た。

 近くの酒場でアルベルタ産のブランデーを購入し、部屋に戻ったが、そこには彼女の姿は既になかった。

 こんなことになりながらも、『また一つ戦力を失った』と思うことを、自分はいつ止められるだろうか。

 

 あまりに杜撰すぎて、日々を取りこぼしている。

 きっとすべてのものが自分を置いて去っていくまで、何もやめられないんだろう。

 少しは彼女の目を見て、ちゃんと物を言えばよかった。

 最近、彼の目すら、正面からは見ていない気がする。

 

 

2026.09.18