白い朝の記憶
日差しが、光っている。
薄いレースのカーテン越しに、そしてその隙間から、ちらちらと白い光が風にゆれて瞬いている。ガラスビーズのモビールみたいに、ときどき、きらっと光って、きれいだ。
懐かしい匂いのする光景だった。
かすかに開きかけていた目をもう少し開けて、アレイスは窓を見た。
カラカラと、ゆるやかな風の音がする。視界はぼやけていた。朝か。
「どうして」とふと思って、けれど窓辺に緑色の人影をみつけて、それで納得がいった。
朝だ。彼女が窓を開けた。
美しく波打つ長い髪、レースの向こうから息遣いが聞こえる。
「すみません、起こしましたか」
アレイスが体を少しだけ起こすと、すぐに彼女が振り返ってこちらを見た。こちらに気を使う必要はないと手だけで静止して、彼女に言う。
「いや、良い部屋だね、朝日が入る」
眠ってしまったのか、とアレイスは昨夜の記憶を探した。ミネルヴァの部屋で、衣服も碌に身に着けず。
カラ、と音がなった。窓に目をやる。細く長い紐――ウィンドチャイムだ――貝殻の――アルベルタで彼女が買った。
自分の今の感覚のすべてに合点がいく。
「それから、風も」
言うと彼女は、チャイムを振り返り、それから目元を少し緩めた。
甘く懐かしい気持ちになるのは、アルベルタ土産のせいだ。あの新婚旅行からちょうど一か月が経った。記憶も薄れ日常に戻った頃合いに、突然あの日の手触りだけがやってくる。それとも昨晩、久しぶりに彼女と寝たからだろうか。
頭がどこか、ふわふわと心地の良い空気の場所に留まろうとしているみたいだ。今から、起き上がって服を着て仕事に行くという実際の現実を考えると、何もかもを放りだしたい気持ちがすらしてくる。そしてそんな気持ちになること自体が、まるで若かったあの頃の(どの頃の?)ことのようで、遠い記憶と感覚に、なんだかむず痒さを覚えてしまう。
これからの結婚生活が当初の契約通りに進むのであれば、これから毎月に一度はこうなることになるのか。となると、この部屋で寝るのは考え物だ。
(人間に戻れなくなる)
「コーヒーを飲みますか」
ミネルヴァはサイドテーブルからカップを取り上げ、こちらへ視線を向けた。
「敬語」
アレイスが笑うと、彼女は一度きゅっと口を結び、それから少し困ったように微笑む。
「……気を付ける」
その表情。
(完璧な知性と成熟した精神から覗く、どこかちぐはぐな、あどけなさ)
その姿。
(白い繊細なレースに縁取られた、白くすべらかな肌。そこから続く非の打ち所のない曲線)
美しい髪に、美しい瞳に、美しい体躯に、可愛らしい彼女。
返事ができない。
身体が勝手に、この場に留まりたがっている。
カラカラと、風の音が鳴る。
(人間に、戻れなくなる)
・・・
結局、彼女のコーヒーを断り、おはようのキスを落とし、逃げるように寝室を出て、自室でシャワーを浴びてから、法衣にそでを通すことによって、アレイスは世界をまた元通りの灰色に戻してみせた。
いつもの時間に職場につき、教会の石廊下を歩きながら、絶望的なまでに彩度に欠いた我が根城に、いっそすがすがしい気持ちですらあった。
仕事場に入れば、デスクの上には書類の山。これらの中身もまた例外なく、解決される気配すらない問題ばかり(責任の押し付け合い、くだらない面子の潰し合い、またはその両方)である。アレイスはデスクの椅子に深く腰掛け、大きく息を吐く。
あまりに素晴らしい、これこそ人生だ。
「ご機嫌になられましたか」
アレイスのためのコーヒーをデスクに置きながら、部下のナツキが淡々とそう言った。
無論、皮肉だ。今朝の書類は、比較的多い部類だった。
それだって、全然、悪くない。辟易するものばかりに囲まれて、だからこそ馬鹿にしがいのあるというものだ。
「一人でやるのが実に惜しいね、分けてあげたいぐらいだ」
「残念です」
すました顔でナツキはそう言い、あっさり自分の席に戻っていった。
あの顔も、いつも能面というわけではない。
先月だって、新婚旅行休暇から戻ったばかりのアレイスを、ナツキが生意気にも「どうでした、ハネムーン」とからかってきたものだから、「夜はほとんど寝かせてもらえなかった」と答えてやったばかりだ。
軽く小突いてみただけなのに、ナツキは面食らった顔をまったく隠せないまま「は?」と顔を上げていた。その固まった表情をちらりと確認してから、随分と愉快な気持ちでその日は仕事ができたものだった。
あの時のナツキの顔と言ったら。
あんな分かりやすい動揺をするようでは、まだまだ他院の司教会には出せない。
早く彼にも、“人並み”の仕事を身につけさせなくては。
つまるところ、更に泥に染め上げて、もっと使えるようにする、という意味に他ならない。
(……)
ふいに、今朝の寝室がアレイスの脳裏をよぎる。
カラカラとした、風の音。
あの白い部屋の中で、彼女の緑の長い髪だけが、唯一、色を知っているようだった。
ミネルヴァ。
貝殻の細い紐。
カーテン。
薄く透ける、きらきらとした光。
ゆっくりと、溶けるように、流れていく手触り。
そして、今、目の前にある、机に本に書類にペン――丹精込めて育て上げた、完璧な混沌たち。
そもそも、土台に上げることすら愚かなのかもしれない。
自らもすすり、愛弟子にもすすらせるからには、美しく緻密な泥であるべきだと考えていたが、結局のところ泥は泥でしかないとも言える。
育ったところで、出来上がるのは、自分のようなプリーストだけだろう。
「まあ、ならなくていいか。人間になんて」
「はい?」と、またナツキが不可解そうに顔を上げた。
まだまだ、どうにもならない事ばかりだ。
2026.08.03