甘いコーヒーの記憶

 

 週明けの公休日、ギルドハウスは平素の賑わいとは打って変わって静まり返る。ギルドが定めた公休日は週に二度あるが、週初めのこの日は市場が再開する曜日であるだけに、外の活気も相まって室内の静けさがいつも際立つ。アゼスは人気のないこの空気が好きだ。


 今日は昼過ぎの少し遅い時間に出勤した。

 空気の入れ替えに窓を開けたときに、三階の執務室のカーテンも開かれているのは確認済みだった。

 こんな天気のいい休みの日に、わざわざハウスに出勤してくるような物好きは、事務方の自分を除けばマスターとサブマスターの二人しかいない。万年過労気味の運営陣は、朝からあそこで仕事をしていたのだろう。

 

 予定していた一通りの作業を終えて、夕刻が近づいてきた頃合いに、アゼスは近所のスタンドにコーヒーを買いに出た。

 顔馴染みの店主から淹れたてのコーヒーを受け取り、その差し入れを準備してやっと、三階に顔を出す踏ん切りをつける。

 彼に会う前には、どうしても自分の落ち度のなさを振り返ってしまう。今日は休みだ。残っていた仕事もすべて終えた。今はプライベートの時間。それでいいはずだ。

 アゼスは一歩一歩、軋む階段を上がっていく。



 先週の公休日、オーフェンと寝た。

 その時で三度目だったのに、まだあの感覚が皮膚から消えない。

 自分から誘って、初めてその関係になった後、まるまる何も起こらない一週間もあったはずだ。その時間を自分はどう過ごしていたんだろうか。次を期待しながら、あるいは次が無いことに不安になりながら、過ごす一週間は、やけに長く感じられ、なのに実質からっぽだった。

 平日は待てども待てども時間が流れず、振り返ってみても何をしていたか覚えていない。



 執務室のドアをノックすると、中からオーフェンの返答がした。

「はい」と、短く答えただけの低いその声が、アゼスの耳にとっては、いっそ具合が悪いほど心地よかった。中毒的すぎる。気を付けなくては。

 日常的なやりとりの範囲ですら、“依存”とか“執着”などといった大げさな言葉から、いちいち自分を切り離さなくてはならない。アゼスは、一呼吸おいてから、わざとゆっくりドアを開けた。意味のない時間稼ぎ、と、自嘲が脳をよぎる。


 執務室のソファには、オーフェンが一人で座っていた。

 目の前のローテーブルには書類があちこち広げられており、さきほどまで人がいた気配が残っている。彼一人では、こんな風に散らかさない。

「ギルマスは?」

 アゼスはテーブルに買ってきたコーヒーを置く。

「帰らせた」

 書類に視線を落としたままオーフェンは言ったが、置かれたカップを見て「ああ、ありがとう」とアゼスの顔を見上げた。彼は、アゼスの手にあるもうひとつのカップに気づくと、「気を遣わせたな」と薄く笑った。

 それが面白くなくて、アゼスはソファの端に腰掛ける。

「これは俺のです」

「ああ、そうしてくれ」

 オーフェンはそれ以上追ってくる様子もなく、書類の端を指で揃えている。

 否定すればするほど、ドツボに嵌りそうだ。実際、どちらでもいいと思って選んだカフェラテだった。

 

「手伝いましょうか」

「助かるな。たぶん、一人じゃあ今日は帰れない」

 オーフェンはそう言って、手前の書類の中から会計に関わりそうなものだけをいくつかまとめて、こちらに手渡してきた。受け取りながら、アゼスはため息をついてみせる。

「だったら、どうしてギルマス帰らせたんですか」

「寝かせないと勘が鈍るんだ」

 まるで、マシューから勘を取ったら何も使い物にならない――という酷い表現が、自分たち共通認識であるかのように、彼は言う。それに少なくない満足感を覚えて、アゼスはテーブルに投げ出されたペンを一本取った。

「それにしたって……巻き取りすぎでしょ」

 手元の書類を確認する。請求書がいくつか、予算分配の関係書類、資産運用の報告書。どちらにしても、マシューが簡単にさばけるような類いのものではない。これらをアゼスに任せたオーフェン本人は、幹部にしかサインできないような手紙の束を開封する作業に手を付けながら、

「まあ、正直、お前が来るのを待ってた」

と、事もなげに言った。

 一瞬で沸き上がった心に、アゼスの返事は遅れてしまう。

 人たらし――というのは、オーフェンを含めた周囲の古参がマシューを評するときに使う言葉だが、この人本人だってなかなかのものだ、とアゼスは思う。このギルドを運営している二人は、揃って人心掌握に長けすぎている。


「ちゃんと休んでくださいよ。寝なかったら誰でも鈍りますよ」

「そうか? 俺は最近、調子がいい」

 妙に雑味のある言い方だった。気になって、アゼスは彼を見る。

「どうして?」

 すると種明かしをするように、オーフェンは低い笑い声をもらした。

「はは。お前のお陰だよ」

 彼は愉快そうだったが、真意がわからず、しかし一瞬「どういう意味ですか」と問うことをアゼスはためらった。オーフェンがすぐに差し入れられたコーヒーを持ち上げて、こちらを見てから飲んだので、そういった気遣いのことを言っているのだろうと、察しはつく。早まったことを言わなくてよかった。

 彼がこくりとコーヒーを飲み、テーブルの遠くにあったコースターを引き寄せてから、その上にカップを置く。

 革のコースターだ。


(ヴァンダイクブラウン――いやもうあれはビストルぐらい暗いか。用途からして革は蝋引きだな……)


 本人に不躾な視線が送りづらい分、彼の小物に目を向けてしまう。何を見ても、いつだって趣味がいい。


(……。なにしてんだろ、俺)


 オーフェンを観察したい下心を、アイテム鑑定の目にすり替えるのは、さすがに自分の中でも正当化できない愚かさだ。意図的に引きはがさないと、いつだって脳内で彼の肌の感触ばかりをなぞって滑り落ちていく。

 邪念を振り払って、アゼスは仕事に戻った。


 しばらく、窓の外の喧噪は遠いまま、執務室だけが切り取られたように静かだった。アゼスは会計の書類を先に片づけ、数字の矛盾だけを拾っていった。貼り付ける付箋が増えるほど、他人の仕事が増え、自分の仕事は減っていく――そういう作業だ。

 アゼスの隣ではオーフェンが、次々と手紙を処理している。ペーパーナイフの刃が紙を割る音、封蝋の欠片が皿に落ちる音。そのリズムを上手くうかがいながら、アゼスは自分の仕事を片付けていった。

 やがて、オーフェンの動きが一拍遅れた。彼は書類の端を揃え直し、指先でこめかみを押さえる。視線だけが紙の上に残り、身体はほんの少しだけ後ろへ引き、そのままコーヒーに手を伸ばした。カップを持ち上げる所作が、休憩というより切り替えに近い。


「夕食はまだだろ」

「まあ、さすがに」

 アゼスが答えると、オーフェンがコーヒーに口を付けながら訪ねてくる。

「何が食べたい?」

 彼がこう言うということは、一緒に食事を取ろうということだろう。

 ということは、その後も?

 考えすぎだろうか。欲目があると、選択肢が偏ってしまう。

 アゼスの返答が少し遅れたせいで、オーフェンが不思議そうに質問を継ぎ足した。

「先約があるか?」

 いけない、と思い直し、アゼスは切り替えて素早く返答する。

「いえ、ないです。終わってから行きますか?」

 オーフェンはざっとテーブルの書類を見渡して、すべてを二、三度見比べた後、軽くため息をついてから言った。

「まあ、そうなるな」


 だったら少し遅いディナーだ。返答からすぐ、アゼスは思考を回転させる。今から予約なしで行ける店で、夜でも雰囲気があって、時間帯も遅くまでやっていて、客層が良くて――となると――。頭の中で店を検索している途中で、オーフェンが、突然、ぽそりとつぶやいた。


「いっそ、こんな仕事、放りだして帰るか」

「はい? え、いや…」

「俺は今、人生の優先順位を、どうしようもなく間違えているよな」

「どうしたんですか、急に」


 アゼスが顔を上げると、いつのまにかオーフェンは手を止めたままこちらを見ていた。

 いつから見ていたのか分からないほど自然で、まっすぐな視線だった。

 深い緑の長い前髪が、彼の右目にちらりとかかっている。その奥から覗く瞳の力が強い。「アゼス」と、オーフェンが名を呼んだ。


「俺と付き合わないか」

「え」

 思考と同時に、時間も止まる。彼の視線に捕まって、アゼスは固まったまま、見つめ返すことしかできなくなった。


「結局、こんな仕事ばかりやってて、碌に時間も取れやしないが。それでも、曖昧なことを続けるよりいくらかいいだろう?」


 待ってくれ。

 いつからこの話だった? 

 どうしてオーフェンがこんな提案をする必要があるのか、いくつもの思考を並走させるが、そのどれもが結論にたどり着けないまま落下していく。


(曖昧? 俺が何か不満だって、この人は思ってる?)


「どうだ?」

 オーフェンの率直な表情に気圧されながらもアゼスは、事態を問題のないよう最小限に収束するほうへ、咄嗟に答えた。


「どうしてですか。俺は別に…」

 現状を維持させるための方法を、アゼスは必死に探そうとあがく。 

 しかし努力も意味なく、オーフェンはばっさりとアゼスの発言を割ってから言った。

「いや、俺がもたない。俺はもう、随分とお前が好きなんだ」


 彼の眼の引力に、体の重心がぐらっと揺らぐのが分かった。

(………やっば…)

 この腹が決まった性格が、ずっと好きだった、とアゼスは思う。速く、短く、鋭く、でも深く優しい。そしてその線引きが何故か哀しくて、どうしても愛しい。

(…………好きすぎる)


「進める気がないなら、ここで切ったほうがいいぞ」

 彼の声は、丁寧で慎重だ。

 切ったほうがいいのは、きっと、オーフェンからみたアゼスの事情で、彼自身のメリットは度外視なのだろう。身を切って、最後の逃げ道を用意してくれている。


 そんなもの必要ない。

 彼と付き合いたいに決まっている。

 しかし、これが正しい判断なのか理性的に判別する手段はもうアゼスにはない。彼と付き合いたくてたまらないが、これが彼のためになるのか、ならないのか、もう分からない。だから自分に選択をゆだねるようなことを、しないでほしい。


「俺は、あなたほど冷静じゃない…すよ」

 アゼスは語尾を落としてから、慌てて整え直した。機知にとんだ言葉も出せず、手だけがペンを握り直している。大切なシーンだと分かるのに、理想の自分でいられない。


「俺が冷静に見えるなら、それはただのハリボテだ」

 オーフェンの口元が一瞬だけ歪み、すぐ元に戻った。表情の変化はそれだけだった。

「ハリボテでも、格好いいです」

 彼の謙遜をなんとか否定したくて、アゼスはそう言った。するとオーフェンが意外そうに眉を上げ、それからアゼスを正面にとらえた。


「そうか。お前がそう言うなら、意味があったな」

 オーフェンが、少し甘えたように破顔して見せる。

 素朴な幼ささえ感じる優しい笑みに、彼の内側を覗き見た気がして、アゼスは胸を鷲掴みにされたような感覚をおぼえた。ギュっと、一握り。惹きつけられて、魅せられて、搔きむしられるような愛しさだ。


「ほんと、もう……、なんで…そんな……」

 言葉が全然、形になって出てこない。感情だけが溢れて仕方ない。一度ソファに逸らせた視線をゆっくりと持ち上げると、目が合った瞬間、オーフェンがこちらに近づいてきたのが分かった。キスの距離だ、と気づいて、咄嗟に角度を合わせる。柔らかくて甘い、彼の唇の感触がして、それからゆっくりオーフェンの手がアゼスの肩をつかんだ。


「……こんなのが冷静に見えるか?」

 唇がかろうじて離れた程度の間近なまま、オーフェンはかすかに囁いた。その低い声に何もかもを持っていかれそうになって、アゼスはくらくらする視界を、なんとか保つ努力をする。

「いや……そうですね。普段からこんなには、ちょっと、」

 格好良すぎて、困る――と言い終わる前に、オーフェンの唇が、またアゼスのそれに覆いかぶさった。今度は深く、舌を攫われるような口づけだった。体が後方に押され、アゼスの背がソファにつく。手をついた彼の重みで、顔横のソファがぎしりと沈んだ。それでもしばらく、キスはやまなかった。甘すぎる動きに応えながら、だんだんとふわふわ浮いた感覚になってくる。

 たっぷりと彼のキスを味わった後、唇を離してから、彼がアゼスを抱きしめて、深いため息をついた。その吐息を耳元で聞きながら、アゼスは上がった息のまま天井を見つめる。

「アゼス」

 耳の近くで囁かれる彼の声に、鼓膜が痺れるような気分だ。

「本当に、これ以上は無理なんだ。ここが俺の限界みたいだ」


 返事を作ろうとして、アゼスの喉が動かない。頭の中で言葉が溶けて、形にならずに落ちていく。彼の声だけが、身体中に響いて、熱を生むばかりだ。

 何か、気の利いたことを言って、彼に一目置かれたい、と思うのに、それ以上を考えることができない。彼の甘い視線にずっと、捕らえられていたいとさえ、思う。

 

「……責任は、俺が取る。だから付き合おう」


 はい、とアゼスが答えたのは、ほとんど声にはならなかったが、その口の動きだけを確認したオーフェンは、満足そうに微笑んで、またキスを落とした。

 深く合わさった唇はほとんど離れないまま、静かな執務室に小さな音が響いていった。


 鍵がかかっていない、とアゼスは部屋のドアのことを僅かに思い出しはしたが、蜜のように甘い口づけが、やがてすべての思考を溶かしていって、ただ夢みたいな彼の情熱を受け入れるだけで、時間が過ぎていった。

 


 キスは、コーヒーの味がした。

 だからずっと、それ以来、コーヒーを飲むたびに、この日のことを思い出す。

 


2026.02.21