確かめる

 シャワーの音が、宿の部屋に静かに響いていた。

 遠くから聞こえる雨音のように規則正しく、途切れることのない水音。

 アレイスは椅子に腰かけ、脚を組んだまま、部屋の片隅に視線を落としている。


 部屋は、老舗のホテルにした。

 重厚な扉の内にあるその部屋は、内装も調度も上質で、落ち着いた色合いのラグが敷かれ、古い木材の香りがわずかに漂っていた。

 予約の時に、記念日だから少しだけ特別にしてほしい、とチップを渡しておいたが、ホテルはそれに十分な仕事をしてくれたように思う。テーブルには初めからワイングラスとオープナーと食器のたぐいが綺麗に並べられていた。そこに形ばかりの晩酌を用意したが、彼女は乾杯のワイン一杯だけを口にして、すぐに浴室へと消えていった。

 残されたアレイスは、黙ってテーブルを眺めている。

 窓にかかった薄絹のカーテンが揺れ、卓上のワインと薄く削がれたチーズには、ゆるい月光がさし込んでいた。


 彼女の前でアルコールを飲んだのは初めてだ。食事の時は、いつも聖堂ワインを頼んでいた。本来の自分はワインやブランデーをはじめとする酒のたぐいを好んでいるが、それを人前で出すことはほとんどない。一人の時に飲みはするが、一人であればそれが好きだと意識することもない。それは、ワインを好きでいる自分というのを意識する時間が、もはや自分の人生にないということだ。

 だから彼女と対峙する必要がでて、その時間が突然、現れたことになる。

 今夜の準備をするとき、ワインを買うことに迷いはなかった。


 アレイスはおもむろに、テーブルの上に置かれたグラスのワインを手に取り、ひと口だけそれを飲んだ。軽やかで、深みのある味だったが、味覚への集中はすぐに薄れた。静かに響くシャワーの音の前では、その香りさえも雑味のように感じられる。


 契約婚。そう定義された結びつきの延長にある、今まさに起ころうとしている事態を、アレイスはどこか冷静なまなざしで見つめていた。

 子が望めるか、その『確認』。

 こんな名目が、彼女相手に通ってしまったことが、いっそ可笑しい。あの完璧な契約書の前で、こんなに簡単に男女の営みが許可されてしまった。

 彼女はいたって真面目だし、自分も冷静に提案した。

 しかし起こった事体は、喜劇の寓話のように間抜けな展開だ。


(確認、か)


 アレイスは静かに目を閉じる。

 避けては通れないことだと思ったはずだ。けれど思考の癖のようなものに過ぎなかったのかもしれない。懸念事項を確実に潰していく作業は、いつも仕事の時に行う処理だが、それがいつのまにか自分のことですら同じベクトルで考えてしまっている。


(……少し考えるだけで分かるだろう。抱けるかどうかなんて)



 部屋にやってきたミネルヴァは、とても静かだった。平素から必要以上のことを喋る人間ではないが、それでも今夜は特別に、静かだと思った。整えられた髪も、肌の輝きも、言葉の選び方も、すべてが研ぎ澄まされていた。今夜のために、彼女が万全を尽くしてきたことは明らかだった。

 彼女はアレイスの対面のソファに腰かけ、相変わらず完璧な所作でワインを飲んだ。束ねられたエメラルドグリーンの髪が彼女の動きに合わせてゆっくりと肩に流れていくさまが、あまりに美しかった。

 そう、彼女は美しかった。以前からずっとその事実は変わっていない。顔の造形も、そのプロポーションも、女性としてあまりに魅力的な一握りであることは誰の目から見ても明白だろうし、彼女の意識が、努力が、その気高さにより輝きを与えている。

 ミネルヴァは美しい。

 本当は、自分だってその美しさに魅了されているはずだ。それを感じる時間を人生に持っていないだけで。


 性交渉を「できるかどうか」――そんな懸念を提案した自分が馬鹿らしいし、それをもっともな問題だと取り扱った彼女にいたっては笑い話だ。

 彼女はもっと、怒ってよかった。

 

 抱ける。そんなことは、当然だ。抱けるに決まっている。

 あんな美女相手に、生唾を飲み込まない男がいるなら、そっちのほうがどうかしているのだ。


(……まあ……俺は傍から見て、『どうかしてる』側だからな)


 時々、手元に急に戻ってくる自分の感覚が、平素の自分を批判する。


 お前のやり方はどうかしている。

 あまりに仕事をしすぎているし、その何もかも投げやりにしすぎている。

 せっかく自分が打ち込んだ物の全てに、本当のところでは何の価値も感じていない。

 心血そそぎこんだ時間や仕事が、全部無意味に、台無しになっていくのを、信じてただ眺めている。

 理屈の上で正しいことを、ただ順序良く並べて、左から順に馬鹿にしている。

 そんな愚行ばかりを行う人生に、他人を巻き込みすぎている。



 やがて水音が止み、しばらくして扉が開く音がした。

 彼女は、バスローブをまとって出てきた。

 髪は丁寧にまとめられ、肌はうっすらと紅潮しているように見える。

 表情は落ち着いていたが、その目にはどこか緊張が宿っていた。


 アレイスは席を立ち、軽く頷いて入れ替わるように浴室へ向かう。


・・・


 シャワーの温度を調整しながら、アレイスはようやく、自分自身の思考に意識を向けた。鏡越しに映る表情は平静そのものだ。しかし、その裏側には、どこか拭いきれない気持ちのざわめきがあった。

 上から振ってくる水の粒が、容赦なく顔面に叩きつけられる。


(どうして、結婚するなんて言ったんだ)


 契約結婚――合理的な結びつき。だが、いま自分たちがしようとしていることは、どこから見ても、きわめて私的な行為だ。

 それを望んでいる自分がいて、そのことがどうしても心に引っかかる。


(俺はどうしてここにいる)


 ミネルヴァは美しい。端整な顔立ちと、凛とした態度。どこを切り取っても、魅力のないところなど見当たらない。

 

(どうして、彼女が抱きたいなんて思うんだ)


 湯を止めて、タオルで髪を拭いながら、ようやくひとつ深く息を吐く。


 契約。義務。確認。

 それらに付随するあらゆる語が、少しずつ霧散していくのを感じる。

 本当は、すべて辻褄があっているようで、何にもあっていない。

 全部、どうだっていいことのように思える。

 でもそれは何故だ。

 普段、仕事をしているときに、こんな疑問はよぎらない。

 いつもの自分の人生に、そんな時間はない。

 それを排することに、多くの努力を費やしてきた。

 自分の行動が、自分の感情に引きずられないように、何十年も気を配ってきたはずだ。

 どうして、自分は今、自分の感情を感じているんだろう。


 彼女の不安が手に取るように分かるし、彼女の緊張が可愛いもののように思える。でもそれで抱きたいのは変だ。

 自分はいつも通り、女の裸に無条件に興奮すればいいだけなのに。

 妻を抱く義務が果たせるかの、確認だけで十分なのに。


 ミネルヴァ・クレストが抱きたいだなんて、思うべきではないのに。


 どうしてこんなにままならない。

 アレイスは自分の手に、視線を落とす。

 軽くその手を握り込んで感覚を確かめようとしたが、指の動きを見れば見るほど自分の意思とちぐはぐのような気がしてきて、不思議な錯覚に軽く頭を振った。



・・・


 シャワーを終えて浴室を出ると、彼女はすでにベッドのそばに立っていた。

 灯りは落とされていて、柔らかな間接照明が室内に陰影をつくっている。

 バスローブを身に着けてはいるものの、その下に何を着ているのかは、すでに見当がついていた。なのにいざ、その白いレースがローブの隙間から覗くと、いちいち、視線がそこに奪われる。ミネルヴァは微かに唇を引き結び、視線をアレイスから逸らしている。


 歩み寄ると、彼女の頬が、ほんのわずかに紅潮しているように見えた。

 恐れというよりは、ただ、静かに覚悟しているようだった。彼女は、すべてを分かった上で、ここに立っている。


「……おいで」


 アレイスが声をかけると、ミネルヴァは一度だけ、短くうなずいた。


 その返事を受けて、アレイスはそっと彼女の肩に手を置いた。

 わずかに震える感触が伝わる。拒絶はない。ミネルヴァは視線を上げアレイスを見た。

 彼女の目が、あまりにまっすぐ、こちらを見てる。


「君は…」


 彼女の信用は、過分だった。

 となると、彼女が、間違っていることになる。余計な信頼は、判断の誤りだから。

 だから、彼女がアレイスを信じるのは、愚かなことだ。頭ではそう思う。自分への過剰な信頼を、都合よく利用する道を本来なら探さないといけない。もっと巧みに計算して、この利点を実益に結び付けるべきだ。ずっとそうやってきたじゃないか。

 分かっているのに、何も考えられない。

 自分がどういう人間だったのか、何故だかこの部屋の中では分からなくなってきている。


 正しいのは彼女のほうだとすら思える。

 彼女の信頼が、哀れで愛おしい。


「……君は、どうしようもなく、可愛いね」


 アレイスは静かに息を吐き、彼女をそっと押し倒す。バスローブの質感が指先に伝わり、彼女の体温がその下から立ちのぼってくる。

 ミネルヴァは身を固くしていたが、それもすぐに溶けていった。


 彼女は、何も問わない。何も責めない。

 ただ黙って、アレイスを受け入れようとしている。


 アレイスは、それ以上、何も言葉が出てこないまま、そっと彼女に口づけた。



20250805