しめつける

 アレイスの執務室は、ミネルヴァが想像していた場所よりも狭かった。一人分の、応接テーブルと執務机しかない長方形の部屋だ。石造りの灰色の壁が、ぐるりと四方を囲む。教会独特の威圧感があった。しかし物が少なく、部屋の規模にしては広く開けた部屋のようにも感じられた。

 応接テーブルの上に、契約書の最終稿が置かれていた。蝋封はまだされていない。
 窓から差し込む午後の光が羊皮紙の端を白く照らしている。インクの匂いが、きれいに整った部屋に薄く漂っていた。

「ほぼこれで問題ないよ」
 アレイスは椅子に腰掛けたまま、一枚ずつ目を通す。視線は淡々としていて、読み進める速度も変わらない。彼は、懐に眼鏡をしまい込むと、その不思議な色をした真意の読み取れない瞳をまっすぐミネルヴァに向けた。
「ひとつだけ、加えておきたい」
 顔を上げたミネルヴァは、背筋を崩さずアレイスを見ていた。相変わらず、期待も不安も読み取れない表情だ。黙っていれば、慈悲深いように見える。話し出せば、思慮深いように見える。実にプリーストらしい完成された表情だ、とミネルヴァは思った。

「この婚姻は、君の家督継承と後継確保のために行う。それが主目的だ」
 彼の言葉は平坦で、事務書類の一項目を口にするようだった。
「だから、私は婚姻生活の基本的な義務は果たす。だが、それ以上の私的な拘束や職務上の制約は、負わない。そう明記してほしい」
 一瞬だけ目を細めてしまったのが、アレイスに見られたかもしれない。拒否ではなく、意味を計る仕草だったが、どう取られただろうか。
 アレイスは視線を外さず、ペンを机に置いた。

 契約書は、完璧だ。これ以上ない出来栄えだと素直に思える。
 けれどそれは『自分にとっては』ということであって、彼の利点になるような記載が、こちらから見てひとつも見当たらない――というのが、ミネルヴァの率直な感想だった。これを叩き台にして、彼の意見も盛り込めばいい、と考えていた第一案のつもりだったそれが、ほとんど修正もないままに通ってしまった。
 さすがに、奇妙だと思わざるを得ない。

「どうして、ここまで私の条件に合わせてくださるのですか」
 尋ねたミネルヴァに、アレイスはあまり時間を置かず、簡潔に答えた。
「今の君に必要なのは、私の合意であって、心情ではない。違うかい?」

 理路整然と、しすぎている。
 これはミネルヴァが他人からよく指摘される言葉だが、実際に自分が同じ目に合うと、こういう感情になるのか。確かにこれは居心地が逆に良くない。
 ただ自分が、彼の論理の飛躍に追いつけていないだけなのだろうか。それとも、彼の何か膨大な計略の渦に、何も分からないまま飲まれようとしている最中なのか。
 彼が自分を騙すメリットなどないと知っているのにも関わらず、そんなことまで考えがおよんでしまう。

「……それはそうですが」
 言葉を返しながらも、ミネルヴァはやはり真意を測りかねていた。机上の契約書の端に指先を置き、そこから目を離さない。疑問が喉元にあったが、慎重に選んだ言葉だけを続ける。
「……同情、ですか」
 アレイスは短く笑った。
「同情なら、もっと分かりやすい条件にするよ」

 数式のように、短ければ短いほど正しさが美しいと思わせるようなやり口だ。初めて彼と話した時、真っ先にこれがいいと思った部分でもある。これは彼の一番の魅力だ。なのに、いざ目の前に突き付けられてみると、あまりの切れ味に竦んでしまう。
 ミネルヴァは、静かに視線を落とした。

 アレイスは穏やかに言った。
「この結婚は君のためのものだ。なら、そこをはっきりさせておいたほうがいい」

 短い沈黙があった。窓の外から聖堂の鐘の音が遠くに響く。
 これ以上、ここで引き延ばしても仕方ないと、感覚的に分かっていた。
 ビジネスの話はもうとっくに片が付いている。
 やがてミネルヴァは、わずかに頷いた。
「……分かりました。記載しましょう」
 その返事を聞いても、アレイスの表情は変わらなかった。ただ、机上の契約書を再び手元に寄せ、淡々と最後まで読み終えると、署名欄の前でペンを取った。


 アレイスは契約書から視線を外し、椅子の背にもたれた。
「ああ、そうだ。忘れていた。あまり大きな声で言うべき話ではないけれど、避けて通れないからもう率直に言ってしまおう」
 短く間を置き、彼が真っ直ぐにミネルヴァを見て言う。
「実は、ずいぶん長い間、男女のそうした関係からは離れていてね。万一のために、事前に確かめておいたほうがいいと思う。これはもちろん、君が了承してくれるのならば、という話ではあるけれど」

 ミネルヴァは瞬きを一度した。心拍がわずかに速まる。
 これまでの条件提示のどれとも違う。書面に落とし込めば無機質な条項になることを、彼はそのまま口にしている。

「懸念しているのはそれだけだ。私の機能が子作りに支障ないと分かれば、その時点ですぐに婚約の締結に取り掛かりたい」

 室内の静けさが、言葉を強く際立たせる。窓の外で小鳥の鳴き声が聞こえた気がしたが、それはあまりに遠く小さく感じられた。

 頷くか否か、すぐには決められなかった。それはたぶん、羞恥やためらいからではない。望むもの――子を持つこと――に必要な条件として、これは避けられない現実だと理解している。
 ただ、その提案をこうも率直に口にされるとは想定していなかった。

「……承知しました」
 結局、口に出した言葉はそれだけだった。
 余計な装飾を排した自分の答えが、アレイスの口調とよく似ていると、客観的な意識でそう思った。自分たちは、よく似ている。
 けれど今、自分の胸を締め付けている、喜びのような、苦しみのような、よく分からない圧迫を、彼は感じていないのだろうと、ミネルヴァは思った。


20250804