歓迎


 暗い室内で、逆光だった。向かい合ったソファに、低いテーブルを挟んで、男が二人座り込んでいる。上司は足を組んで、来客は開いた足に両腕をのせていた。教会の石造りの壁の一部や、二人の身に着けたプリーストの法衣が、この場に正しさを与えている。静かで深刻で、それが祭壇画家のスケッチのようだった。

 来客にお茶を出してほしい、という指示が上官から出るのは、ナツキにとってほとんど密命の合図だ。普段のアレイスは紅茶ぐらい自分で淹れて客に振舞うし、なんだったら彼が淹れた紅茶のほうがナツキのものより美味い。
 彼が必要もない雑用を自分に頼むのは、つまりその場に立ち会えという意味だった。同席しろ、というのではない。目撃しろ、という指示に近い。アレイスはそうやってナツキを当事者の一部にしてしまうことで、経験を積ませていこうとする上司だ。
 部屋に来るのはこちらに異動予定のプリーストだったから、ナツキは「はい」と了解の返事をしながらも、彼の指示にどことなく違和感を覚えていた。あまり例のない異動ではあるが、立ち合いが必要なほど深刻な話とは思えない。

 なんでもない会話で、会合はゆっくりと開始した。ほとんどは文書で読んだし、確認したいのも先触れ書いたとおりのことだ、とアレイスは彼に説明した。
 ナツキはこの場の意味を考えながら、ゆっくりと男を眺めていた。会計室のオズワルド・マズルカ。自分より、四期上だった。兄も両親も首都教会にいるが、マズルカは確かゲフェンのウィザードの家系だ。
  議題は、先日の教会からの派遣部隊で事故の話のようだった。そういえば、一名、事務員が巻き込まれたという話をナツキは聞いていた。
 そうか、あれは、兄のロデリック・マズルカの話だったか。
 ナツキがぼんやりと思い返している間にも、二人の言葉は、どちらも掴みどころ無く進んでいく。

 彼の少し長い緑の前髪が、彼の俯いたタイミングで少し揺れた。
「出ることも考えました。たぶん、やれないわけじゃない」
 アレイスは黙って聞いている。上司は基本的に、待つやり口だ。
「でも、僕が良くても、あれがなんて言うか」
 しばらく、言葉はなくなった。ナツキの淹れた紅茶は、手を付けられることもなく温度をなくしていった。その白い湯気が消えていくのが見えるほど、酷暑の太陽は室内に影を落とす。
「出るというのは」と、アレイスが言った。
「首都から? 教会から?」
 問いかけは穏やかだったが、声には微かな圧があった。静けさが濃くなる。ナツキは二人の間に横たわる見えない境界線を思う。
 質問に、来客者は自嘲気味な非対称の笑いを見せた。
「元は、……先のことではありますけど、二人でどこか地方の教会にでも派遣されればと……考えていた時期もありました。真剣に。あまりに楽観的過ぎて、今なら笑えてしまう」
 オズワルドの声は淡々としていたが、その奥にある疲労感を、ナツキは感じ取っていた。手放した直後の人間の声だ。
「まあ、教会から出るより、いくらか現実味もある」
  アレイスはそう言ったが、それが救いになるとは、彼自身も思っていないようだった。
「そうでしょうか? 僕には道が見えません」
「宣教師兄弟というのも、まあ、ないものじゃないだろう」
 諦めたように、彼は首を振った。肩の力が抜け、わずかに背中が沈む。
「僕一人なら、あるいは」
「……しかしそれなら、意味はない。そうだね?」
 アレイスの質問は、確認だった。声色にこそ強さはないが、酷く含みのある表現だ、とナツキは思う。さっきからこの仄暗い部屋では、公然の秘密が大きな場所をしめている。ローテーブルには紅茶カップよりも大きな問題が、誰にも触れてはいけない形でそこに置かれている。そのふちをなぞるように、彼らは話を進めていて、だからこそ空気は重くもどかしい。
 どこか投げやりに吹っ切れた様子で、オズワルドはアレイスのほうに顔を上げた。
「そうです」
「それは、兄君のほうも」
「……そうです」
「なるほど」
 アレイスは、静かに立ち上がった。

「事情は分かった。君の返答も。こちらに来るのは歓迎だ。もともと私が誘ったことだしね。ひとつだけ、君の理由が知りたい。地方の教会に異動できる道が絶たれたとして、どうして冒険者にならない」
 上官は自分のデスクに戻り、何枚かの書類を手に取った。
「兄はなんと?」
とオズワルドが彼に尋ね、アレイスは少し意外そうに顔を上げる。
「なんだ、私が先にロデリックのほうと話したこと、聞いていたのかい」
「いいえ。なんとなく」
 オズワルドの返しには、確信めいたものはなかった。アレイスは一拍置いて、短く吐息をもらす。
「……。彼の返答はシンプルだったよ。『外に出たら、寝首が掻けない』と」
「はは」
 乾いた笑い声がオズワルドの口からこぼれる。
「本当は、俺がそう言うべきなんだ。でも、彼のほうが、いつでも早いんです」
 オズワルドは目を伏せ、静かに言葉を足した。
「生まれてくるのも」
 それは冗談のようでいて、何か核心に近い一言のようにナツキには思えた。彼の皮肉めいた兄に対する誇りと愛情は、彼にとってなぜだか、もどかしそうだった。
 しかしオズワルドはすぐにその複雑そうな笑みをやめ、アレイスのほうをまっすぐ見て随分はっきりと言い放った。
「けれど、実際に掻くのは俺です。俺はためらいなくやれます」
「いいねえ」
 上官は、満足げに目を細め、書類確認のためにかけていた眼鏡を無造作に外して手を離した。首にかけられた細い金のチェーンが揺れる。
「じゃあさっそく、来週には掻いてもらおうかな」
 あまりにあっけなくそう言って、書類を手にアレイスは席に戻ってきた。
 彼の描いているシナリオを、想像できるものは部屋に一人もいなかった。部屋どころか、この教会中どこを探したってそんな者はいない。ナツキに分かったのは、役者が揃った、ということ。そしてその台本には、自分の配役もあるらしい、ということだけだった。

「会計室出身の君のほうが詳しいだろうが、監査権を持つのは典蔵局の会計帳簿監査と、もうひとつある」
「……交誼局の内外調整監査。でもあれは、外部との関係を………。人事室と外部がどう関わっているとおっしゃるつもりですか」
 オズワルドは小さく眉を寄せた。否定というより、確認に近い声音だった。だがその声の端には、ひとかけらの不安が混じっていた。
「関わっているかいないかを、“監査”すればいい」
「そんな――」
 声になりかけたオズワルドのわずかな抗議を封じるように、アレイスは一枚の書類を音もなく目の前に差し出した。白い紙が、古びた机の上でかすかに光を返す。
「これが、諧律司教のサイン」
「ば…っ」
 オズワルドは反射的に置かれた紙片を取り上げた。彼の慌てた様子をよそに、アレイスは涼しい顔で話を続ける。
「ロデリックの負傷事故は、派遣部隊の活動とは無関係である――よって部隊の業績や任務の正当性にはなんら影響がない――この主張は彼らが『外部報告書』で行ったものだ。こう主張させるに至った外部者の何らかの関係を疑っても問題あるまい。監査対象に、十分なりうる」
 アレイスの言葉に、感情の抑揚はなかった。起伏のない口調のまま、必要な説明だけを簡潔に伝えていく。だが、状況はもう既に、上官の彼によってすべて変えられてしまったのだとナツキには分かった。これは変更点の告知にすぎない。
 オズワルドは小さく息を吐いた。難解な教会の文書だろうが、目を通す所作はさすがに慣れたものらしく、彼の理解は早かった。読み終えた紙をわずかに持ち上げたまま、視線だけをアレイスに向ける。
「…………できて、しまう」
「そう、出来てしまう。今まで、やった馬鹿はいない」
  オズワルドの視線が、ナツキに向かった。補足の説明を求めているのだろうが、ナツキにアレイスの話をこれ以上分かりやすく説明する手腕はない。アレイスはいつも、一番簡単な手順で言葉を選ぶ。

「君たちの歓迎会を兼ねて、私がひとつ、余興の馬鹿をやろう」
 アレイスの口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。それは勝利の確信でもなければ、皮肉の冷笑でもない。ただ予定通りに歯車が噛み合った時に彼が見せる、静かな満足の象徴だった。
「ようこそ、第三聖務室へ。私の歓迎が、君たちに伝わればいいね」

20250726