書類と彼女
まとめてきました、とミネルヴァは言った。それは端的に、狂った所業といって差し支えない程度にはおかしな行動だった。目の前に差し出された書類にアレイスは目を落とす。
レストランの美しい淡青のテーブルクロス、その上に並べられた銀食器と空のワイングラス、デミタスカップくらいの大きさの花瓶と、六角形のフロストグラスに入れられたキャンドル。それらと並べれば、あきらかに異質であるその書類。タイトルには『婚姻に伴う相互利益および課題の整理』とつづられている。
二回目の会食だ。一度目の会食は、和やかに終わった。食事を楽しみ、会話を楽しみ、年齢が十も離れていることを理由に彼女のほうから適当な断りを入れるようにさりげなく依頼した。彼女はそれに緩く了承して、その夜は解散した――はずだった。
しかし、アレイスは仲人から再び会食の場を設けるように指示され、本日の席を予約するはめになっている。何かがおかしい。おかしなことが始まろうとしている。
アレイスは法衣の内側から眼鏡を取り出して、ひとまず一枚目の表紙をめくった。次に書かれていたのは目次で、内容はこうだった。
1.期待される相互利益
2.家督継承に伴う関与範囲
3.生活設計および資産運用の方針
4.想定される課題と対応案
「いっそ、惚れ惚れするね」
三枚目に書かれた文字を流し読みながら、アレイスは言った。感想は、半ば本心だった。一週間やそこらで、蹴られた案件に対してここまでの書類を作り込んでくる能力は、評価に値するもので間違いない。内容も、実際にアレイスが婚姻を検討するなら必要になる情報ばかりが適切に並んでいる。こちらが要求する前に、あちらから提示してくるスタイル。有能のお手本みたいな行動だ。
ただしそれが、こと見合い会食において打たれる手段として相応しいかどうかだけは、どこまでも疑問が残る。
「恐縮です」とミネルヴァが答える。彼女は何もふざけていない。至極まっとうにこれをやっている。紙一重かもしれない。
「君の言いたいことは、だいたい分かった」
「ええ」
アレイスは外した眼鏡を元の懐にしまいこみ、彼女のほうを見た。
ミネルヴァのエメラルドグリーンの髪は、後ろの片側で優雅にまとめ上げられている。耳には、ウィザードギルドの徽章『真実の目』の意匠があしらわれた大振りの金細工。そしてそのモチーフに負けることのない意思を持った瞳と、それを携える美しい顔立ち。
前回の会食で、「私は一度婚約を破談にしてしまったことがある」と彼女は言ったが、それはたぶん違う。この佇まい。そしてこの紙。そしてこの眼。
男のほうが、尻尾を巻いて逃げ出したんだろう。でなければ、彼女を手放す意味が分からない。
そして、それすら自分の失敗だったと評価している完全さが、彼女の急所だ。
「ソムリエが来る前に、2つだけ確認したい」
「はい」
ミネルヴァは少しだけ前のめりに頷いた。ほとんど違和感を持たせないような程度の動きだったが、アレイスには彼女のその微かな動きが分かった。それがなんだか、可愛らしく思える。自然と、口元が緩んだ。
「ひとつめ。君、ロブスターは好きかい」
彼女は僅かに体を強張らせ、しかしすぐにこちらの視線がメニュー表にあることに気づいたのだろう、「まあ、好きです」と答えた。対応が早い。
「よかった。魚介は好きだと聞いていたけれど。ここのおすすめだから、じゃあメインはそれにしよう」
「ええ」
ミネルヴァが息をつく。
本当に、分かりやすい。
分かりやすいのに、完璧だ。そんなことがあるんだな、とアレイスはメニューの文字を目で追いながら漠然と考える。
血統がある。年齢にも、リミットがある。有能で、美人で、責任感が強い。だから、理屈は通っている。結婚を望む理由も。でも、最後の1ピースだけがどうしても埋まらない。そこだけがアンノーンで、彼女の事が、分からない。
「ふたつめだけど、」
メニュー表をしまいながら、アレイスは尋ねた。
「君、もしかして、僕のこと好きになった?」
ミネルヴァが視線を合わせる。
「はい、そう取ってもらって、差し支えないです」
返答は、一度目より早かった。
用意してきている、とアレイスは思った。表情にもぶれがない。
(いっそ、ぶれたほうが、人間らしい)
アレイスは書類に目を落とす。こんなもレポート、一見、狂ってる。しかしこれは無慮ではなく、読み切った上での奇策なのか。紙一重の、上振れのほうかもしれない。
美しい彼女は、あまり多くを語らない。自分が集めた情報にも何も齟齬はない。書類のタイトルだけが、事実としてそこにある。『婚姻に伴う相互利益および課題の整理』
(俺は、こう思われているのか)
実際、自分がどういう人間だったのか、アレイスは考えるのが億劫になってきている。
いや、彼女のそれと比べると、あまりにも矮小すぎる気にすらなってくる。
セットされたレストランのテーブル、静かに演奏され続ける弦楽アンサンブルの調べ、丁寧に仕立てられたセミフォーマルのスーツ、そういった周囲の洗練された上質な何もかもに、彼女は見劣りせず、正しく存在している。この場にふさわしくないのは、もはや自分の方であるのかもしれない。この席を用意したのは自分であるのに、アレイスはそんなことを考える。
婚姻の利益。
そんなものはない。あっても、婚姻の不利益のほうと差し引きすれば、吹き飛んでしまう程度の物だ。冷静な思考ではそう思えるのに、なにかが最後のひとつが引っかかる。
理屈とか利益とか。そんなもののほうが、ここでは寸劇の配役でしかないのかもしれない。
「確かに、君の分析は正しい。私を初回でこうみる人間も稀だが……」
アレイスは書類を丁寧に折りたたみ、懐にしまう。
「しかしね、僕がこれを受け取って、食事を続けたいのは、君を可愛く思えてきたからだ。君はそれを、考えもしなかっただろうね」
アレイスはそう告げて、片手でソムリエを呼んだ。先ほどからこちらに来たそうに様子を窺っていた彼は、ほっとしたようにワインリストを持ってやってきた。
リストをざっと見渡し、「白でいいかな」とアレイスがミネルヴァへ尋ねると、彼女はわずかに紅潮した顔を、逸らすように斜め下にやって「お任せします」とだけ短く答えた。
2025.05.18