毎晩

 抱きたい、といっても、初めはただ単純に抱きしめたいだけだった。抱き寄せて、眠りたい。あの感触を腕の中に閉じ込めたまま、一日の幕を下ろしたい。彼女に触れたまま、あの匂いに包まれたまま、目を閉じて意識を手放したい。そういう感情しかなかった。
 それを性欲と呼ぶのか、正直なところカリシュには分からない。人と比べたことはなかったし、他人とその感覚について話を擦り合わせたこともなかった。ただ、大多数の人間が、男が女にするそれを性欲と呼んでいることは理解していたので、他人からはそう呼ばれているらしい自分の中の例の感覚、といった認識程度だった。自分に限って言うのなら、女にしかいだかない感情ではないし、必ず性交と結びつくものでもない。おそらく一般的な意味でのそれと、自分の中のこれとは、大きな乖離がある気がする。
 一般的な意味との乖離――などということ言い出せば、カリシュにとってこれはもう、ほとんど全ての感覚がそうだった。自分の感覚は、何もかもが他人とまるで違う。だから同じ言葉を使ってそれらを言い表すと、後になって大抵、話がこじれてしまう。
 湧き上がってくる感情たちを自分の中だけで比較するなら、喜怒哀楽だって、嫉妬や誇りや正義感や罪悪感だって、認識としてはちゃんと存在しているはずなのに、他人のそれらと比べた途端に自分の感情たちは『そうではない』ことになる。
 その頻度があまりにも多いから、擦り合わせることに疲れてしまった。誤解させたいわけではないのに、どこで誰を怒らせて、どこで誰を悲しませるのか、もうカリシュには分からない。いずれそうなる、ということが経験則的に理解できるだけだ。
 他人がどう呼ぼうと、自分のこの感覚は人とは違う。
 これは自分の中では性欲だけれど、大方これだって一般的な意味のそれじゃない。大衆のための知識や、大多数に当てはまる教訓は、どれも自分のためのものではない。共感もできないし、知見を上手く利用することもできない。
 どうせこの『抱きたい』だって、本当は『抱きたい』という感情じゃないんだろう。
 そういうある種の諦めからくる逆説的な自信ともいえる慢心が、心の奥底にあったと思う。

 ところが、最近の自分といったら、どうだ。
 実際、夜、眠る前に、ベッドの中でフィオナが自分の腕にすっぽりおさまっているこの状況。
 普通に抱きたい。
 衣服を取り去って、じかに肌を確かめたい。あの丸く尖った耳の先端を口に含んで、あられもない声を出す彼女を腕の中に閉じ込めていたい。腹から太ももにかけるすべらかな隆起を、手のひらでなぞって、柔らかい内股を開かせたい。そのまま挿れたいし、出したい。
 毎晩、毎晩、そう思う。
 なんだこれは、病気か、とまで考えて、ああ、そうかと思い至った。
 これが性欲だ。
 性欲だ、結局その言葉で良かった。けれどこの欲求は確実に以前とは違う。分かっていたはずの感覚が、自分の知らない何かに段々と形を変えていっている。だってフィオナに対する感情は、こんなに唐突な衝動じゃなかった。こんな、フィオナが側に寄り添ってくるだけで条件反射的に捕まえて、どうにかしたくなるような――指先で、手のひらで、唇で、舌で、全部を、とにかく全部を確かめてから、いっきに食べてしまいたくなるような、丸呑みしたくなるような――そんな衝動ではなかった。
 そうではなくて、もっと、こう、柔らかな彼女の匂いを吸い込んでどっぷりと眠ってしまいたいような類いの、あるいは、ゆるゆる眠り行く彼女の頬を指の背でやわく撫でていたい類いの、そういう毛色の感情だった。
 いつからだろう。
 自分の感情はいつからこんなに、凶暴性を持ったのか。
 性の快楽は嫌いじゃない。得られるなら、得たいと思う。でも気乗りする日としない日があったっていい。いや以前はあった。そういうものだと思っていた。
 だからこそこんな、フィオナが腕の中に来るたびに反射的に欲情するのはおかしいと思う。別に誘惑されているわけでもない。本当に、ただ、同じ布団の中に彼女がいるだけで。毎晩、毎晩――異常でしかない。
 もしかすると、世の中の人間はこういう感情を毎晩持て余してるのかも知れないし、もしかすると、毎晩こんな突飛もない衝動をかかえこんでいるのは世界で自分ただ一人なのかも知れない。どちらなのか分からないし、どちらだとしても自分の陥ったこの状況はなにも変わらない。
 こんなことをフィオナに話したら笑われるだろうか。それでも彼女は律義にすべての話を聞いてくれるだろう。少しでも分かろうとしてくれるだろうし、許可さえしてくれるかもしれない。けれど、さすがに毎晩セックスをするわけにもいかないので、こんな感情を話すのは得策じゃない気もする。
 そうすると必然的に、自分で消化してしまうより他はなくなって、そして毎晩、あの葛藤が始まる。
 だからカリシュは、靄のかかったはっきりしない気持ちのまま、毎回、一旦は感情を堪えようする。それで強引に眠ってしまえる日もある。だが大抵は、意地汚い気持ちが尾を引いて、少しだけなら、と、腕の中いる彼女の、耳の先にやわく歯を立ててみる。途端に、フィオナがくすぐったそうに声を漏らして、体をきゅっと縮こませ、あげく困ったように「もう」と言う。たまったものではない。そうしないように堪えているからこういう結果になっているのに、てんで逆効果だ。抱きたい一色に頭が染まる。一度だけなら、と口付ける。彼女のこちらを見る目が何故かとろんとまどろんで、無防備になる。そのままだとこぼれ落ちそうだから、抱きなおす。隙がうまれると、つい首元に手がいく。地肌に触れると、そのまま勝手に手が下へと滑り落ちて、服の中に、そのあたりで、もう自分が引き際を見失っていることに気付くけれど、唇で耳の輪郭をなぞることがやめられなくなっていて、口付けて、歯を立てて、舌で触って、フィオナが切なそうに抑えた声をあげて、もうどうにもならない。毎晩、毎晩。
 馬鹿じゃないのか。馬鹿みたいだ。一体いつからこんなことに。
 我慢しても我慢しなくても、頭が変になりそうだ。

 

 

2024.09.09改