微力1

 1-1



 その日のプロンテラは晴れていた。

 天の高いところに流れる白い雲をいくつか乗せただけの、あまりに青い爽快な空が広がっていた。教会の薄暗い部屋から出てきたばかりのツイードは、出口の扉を後ろ手に閉め、眩しい空に眼を細める。今日もいい天気だ。けれど首都の街中を歩いていく人々の中にこの空を仰ぐ者の姿は一人もなく、まるでそうするのが当たり前のように慌ただしく歩みを進めていく。ここはそういう街だ。


 すっかり遅くなってしまった時間をぼんやりと意識しながらも、特に急ぐ気にもなれず、いつもの歩調でツイードは歩き出す。

 職業ギルドにプリーストとしての籍こそあるものの、教会での役職を持たない自分のような者たちは、一般的に冒険者と呼ばれる。給料や職業手当といった安定収入を持たないため、自分と同じ境遇の者たちとその日限りのパーティーを組みモンスター狩りに繰り出すのが若い冒険者の主な生活の立て方だ。

 例に漏れずツイードも、そういう臨時のパーティーに加わり、しがない日銭を稼ぐごく平凡な冒険者としての日常を過ごしていた。

 こういう生活は、一日を逃せばただちに資金が底を尽きるというわけではないものだから、毎日にあまり危機感が持てない。感覚としては本当に、日々の狩りはただ惰性のように出かけているにすぎなかった。

 『若くて守る物もない内から、冒険を躊躇ってどうする』と年上のプリーストに言われたことはあるが、その理屈はいっそ逆だとツイードが思う。守る物があるのなら、自分だって今より少しは必死に生きただろう。


 熱血、共同体感覚、そういうものは少し前のトレンドだ。冒険者ギルド設立前後の彼らは、時代の流れと勢いの力でそれらを形作ったのだろうが、自分たちのようにノービス時代には既に職業カタログを眺めながら育った世代は、個人主義の傾向が顕著のように思う。馬鹿正直に命を削っていくよりは、もう少し賢く死にたい。

 もちろん、ツイードは自分のそういった性格を時代のせいだとは思わない。ただ、客観的に自堕落だなと思う。あえて悪事に手を染めるだとか、自暴自棄でお座なりに生きるだとか、そんな事は好きじゃない。けれど、自分は全然真面目じゃないし、そういう熱意が持てない部分をちっとも悪いと思っていないふてぶてしさが自分の中にはある。


 幸いこの首都プロンテラには、そういう若くして既に自堕落な冒険者たちが、いつのまにか集まる場所がいくつかあった。

 ツイードが向かっているのはその内のひとつ、外周西あたりにある溜まり場だ。だいたい朝の遅い時間帯には顔なじみの連中が集まって、その日限りのパーティーを組み、適当なダンジョンへと狩りに向かう。そのパーティーに支援プリーストとして同行するのがツイードの最近のルーティンだった。


 決して、これが正攻法の生き方だとは思わない。けれど、首都は王道以外の亜流や例外であふれかえっている。プロンテラなんていうのは雑踏だ。行き交う人々の身分や職業があまりにもバラバラなのに、なにもかも全てがないまぜになって、ワゴンセールのように無造作に売られている。そのぐしゃぐしゃの山の中で、ひっそりと居直っているのが、自分のような冒険者だ、とツイードは思っていた。






1-2



 せっかく到着した溜まり場には、いつものような賑わいはなかった。

 壁沿いの石段に軽く腰掛ける人影が一つあるだけで、他の冒険者の姿はない。

 浅い空色の髪を短く切り込んだアサシン。あれは溜まり場の常連の一人、スルガだろうとツイードは見当を付ける。彼は立ち姿がきれいだからすぐに分かる。

 向こうもこちらに気づいたようで、自然と目があった。


「ちわ」

 歩いて近づいていく間ずっと視線が合っていたので、あらためて挨拶をするのも変かとも思ったが、とりあえずツイードは声を出す。

「どうも」

 スルガはいつも通りの、気さくな笑顔を浮かべていた。

(なんだ……?)

 彼と二人きりで会うのは初めてだったが、不思議な違和感があった。

 慣れない空気にスルガがそわそわとしている気がする。どうでもいい溜まり場のどうでもいい冒険者である自分たちに、慎重で丁寧な交流を取る必要なんてない。

 スルガは、ツイードと違うグループの人間に誘われてこの溜まり場に来たアサシンだった。狩りの腕は確かなのに仲間内ではいじられがちなポジションなのが妙だと初めは思ったが、さっぱりとした端正な顔立ちとは裏腹に、口を開けばどこか抜けている話し方をする男で、周囲の人間の扱いにも納得した。

 スルガが自分に対してこういう態度を取る理由が、ツイードには思い当たらない。一対一が苦手なタイプなのだろうか、と彼の顔を眺めながら思う。

 スルガは、目をそらさないまま、おずおずと口ごもる。

「えっと……」


(そういえば、他の連中は?)


 ここに来たのはいつもより遅い時間だった。単純に起きるのが遅かったのもあるし、書類を届けるのに教会へ寄ったせいでもある。

 他の冒険者は、適当にパーティーを組んでとっくに狩りに出かけてしまったのだろうと考えれば不思議はないが、となると、何故この男がここに一人でいるのかという疑問が残る。考えられる可能性としては、自分と同様の遅刻か、遅刻はしなかったものの今日という労働の何もかもが面倒になって狩りに行くのを放棄したかぐらいである。もともと、ギルドや固定パーティーに所属していない自由きままな――どちらかと言えば社会的にダメな――人間の溜まり場だ。どちらでもあり得る。


「寝坊です?」

 ツイードはスルガにならって石段に腰かけつつ話しかける。外壁のあたりがちょうどいい位置にある椅子のような造りになっていて、そこに座るのがこの溜まり場の通例になっていた。

「え? 俺ですか?」

「一人でいるから。ちなみに、俺は寝坊です」

「え、マジですか。仕事かと」

「仕事もしたんだけど、寝坊もしたんですよねぇ」

 ツイードが空を見上げて呟けば、スルガがあははと声に出して笑った。

「ツードさんも寝坊とかするんだ」

「じゃあスルガさんは仕事です?」

「あ、俺は仕事も寝坊もしてなくて……」

「へえ?」

 そういえばスルガとは、話をすること自体が久しぶりなんじゃないか。親しいグループの人間にからかわれて大騒ぎしている彼を見慣れているせいで、今いくぶんか落ち着いて話すスルガの姿がツイードには目新しく映る。

「ツードさんが遅れて来るのって珍しいですね」

「あー、そうかな。寝坊だけならそのまま寝ちゃって、外に出ないですね。今日は教会に用事あったんで。この時間じゃあ誰もいないだろうなぁとは思ったんですけど」

 他に行くとこもないし、と付け加えた後で、やはり自分はなんて日々をだらしなく過ごしているんだろうと思う。


「昨日もですか?」

「へ?」

 問いの意味が分からず、ツイードは聞き返した。

「や、会えなかったから、昨日も」

 そうだったか、と記憶を巡らせてみる。そういえば、会わなかったかもしれない。

「いや、ここには来ましたよ、俺。昨日は……、オーフェンとマシュさん達とかで行ったかな。打ち上げ行かずに、途中で抜けましたけど」

 言うと、スルガはどこか遠く上空のほうを眺めながら、「じゃあ入れ違いかなぁ」と呟いた。

「えっと……?」

 ツイードが言葉を繋ぐのに困っていると、スルガが意を決したように、よし、と小さく両こぶしをにぎってから、強い目つきでこちらへ視線を向けた。

「あの、……今日、暇ですか」

「あ?」

 今からでもいい用事だったのか、と思いながら、ツイードが答える。

「すっげー暇です。見てのとおり」

 狩りの誘いか何かだろうかとも考えたが、スルガの態度がどうにもおかしい。その不自然さにツイードは気づいていたものの、何かとんでもなく面倒事の始まりの気配がして、できるなら知らぬ顔をしてやり過ごしたかった。


「えーっと。実は今日、……昨日もなんですけど、俺、ツードさん待ってて」

「俺を?」

「ええ。で、もしよければ、二人でルティエまで狩りに行きませんか。ちょっと話があるんで……」

 用意してきたセリフのように、スルガは一息でそう言った。普通の狩りの誘い方ではないのは明らかだった。

「なんですか、急にあらたまって……」

 しかも、提案された街はルティエだ。クリスマスシーズンならともかく、今のルティエはどう考えても季節はずれだ。イベント特化のあの街は、ダンジョンだって見た目の装飾がファンシーなだけで、効率重視のペア狩りには向かない。あんなカラフルな雪の街に、こんな時期に行くのは子連れかカップルだけだろう。

 だから、ツイードは、言ったのだ。念押しの意味を込めはしたが、冗談のていを崩さなかった。


「まさか、告白とかじゃあないでしょうね?」

 笑ってくれれば、自分も笑い飛ばすだけで済むことだったはずが、ぴくっと、スルガの肩が動いた。

「…………」

 それきり、彼は半笑いのまま視線をそらして、黙ってしまった。


(そんな馬鹿な)


 図星ですと言わんばかりの反応のまま、こちらにボールを渡されても困る。冗談じゃない。待ってくれ、何に巻き込んでくれているんだ。こんなのは一次職のあいだだけで十分だ。

「スルガさん?」

 呼びかけると、彼は気まずそうに視線を泳がせた。

「あの、えっと…」

 アハハ、とカラ笑いをして、彼は何もごまかせていない何かをごまかす。


(下手くそか)


 なんなんだろう、このアサシンは。

 今日は朝から教会で腹の読み合いばかりしてきたせいか、読まずともさらけ出されている腹のようなあまりに分かりやすいこのコミュニケーションは、いっそ楽で好感が持てた。

 が、楽に腹が読めたからといって、それを楽に扱えるわけじゃない。

 ツイードは、彼がたじろぐのが分かっていながらも、言葉を続けた。


「俺、男はちょっと経験がなくて……」

「あ、そ、そうなんですね」

「ってか、そういう風に見えちゃってます?」

 ほんの少し、わざと困ったような顔をして見せただけで、スルガは案の定、途端に慌てだす。

「あ、や、そういうんじゃ、全然ないです。見えてたとかじゃ。合わない人も、もちろんいるとは思うんで……」

 彼の声はどんどん小さくなっていって、最後のほうは消えてしまいそうだった。少しからかいすぎたか。


 ツイードは確かに男性経験はないが、根っからのヘテロセクシャルというわけでもない。いや、自分の性嗜好に関してそこまでしっかりとした指針を持っていない、という方が正しい。そもそも人生に対してすら、なにも明確な指針はない。

 付き合う気だって毛頭ないが、誰かに好かれているのだって満更でもない。

 今まで関係を持った人たちのことを思い返してみても、こんな顔を赤らめて好意を告げられてから始まった関係は思い至らなかった。そういえば、どの彼女とも告白らしい告白や、恋愛らしい恋愛なんてしていなかった。そういう流れになって、嫌悪感がない相手だったら、他になんの条件もなく寝ていた気がする。


(消去法みたいな感情しかねぇな……)

 自分の雑な人生に対して軽い虚無感を覚える。


 なんて愚にもつかない選択と経験なんだろう。自分の過去のそんなものに比べれば、やり方は稚拙であるが、スルガのこの出方のほうが余程まっとうに思えてきた。

 視線を逸らしているスルガは、赤い耳を見せたまま黙っている。

 背筋が良いわけでもないのに――むしろ今なんかは肩を少し丸めてさえいるのに、彼の立ち姿はいつもきれいで不思議だ。

 街中に居るのに、ダンジョンに居るときの姿勢とあまり違いがないように思える。おそらくそれは、今どの方向から何が来ても、彼が瞬時に戦闘体勢へと移行できるという事なんだろう。会話は隙だらけなのに、身体に隙がない。奇妙なアサシンだ、スルガは。

 今、そんなアサシンが、自分に伺いを立てている。動物的な意味での命の権利を持っているのは、プリーストの自分ではなく、アサシンの彼であるはずなのに。その彼を生かすも殺すも自分次第のような選択が、突然、自分の手の中にある。

 おかしな高揚感だった。


「じゃあ行きましょうか」

 しばらくの間、無言になって、けれどもその沈黙が長引かないうちに、ツイードは腰をあげる。

「へ??」

 見るからに、しょんぼりと座っていたスルガが、口をぽかんと開けたままツイードを見上げた。

「ルティエですよ」

 行かないんですかと聞いてはみたものの、スルガが了承する前に、ツイードはワープポータルの詠唱を始めたのだった。






1-3



「寒ッ!」

「うっわ、さむ」

 久しぶりに出したポータルをくぐれば、そこは一面銀世界。冬の街、ルティエだ。突然変わった気温に背筋がぎゅっと縮み上がる。

 シーズン中なら屋台やら人混みやらでまだ少しは温かみもあるだろうけれど、季節外れで人の気配もないこの街は、想像以上に寒さばかりを主張してくる。吐く息が白かった。


「なん、で、こんなトコにしたんだろ、俺」

 震えながら呟いたアサシンの声がツイードにも聞こえたので、「定番だからでしょ」と突っ込んでおいた。

 告白はルティエ。バケーションはコモド。王道だ。こんなところだけ順序を踏まなくてもいいのにと、何かちぐはぐな気分になる。

 寒さで小さくなりながらも、まだ気持ちの準備がついていないのか、スルガはどこかそわそわと困ったような顔をしていた。

「てか、なんでルティエポタもってんですか」

 目が合うと、彼はそう口を開いた。特に目立った利益もない偏狭の街であるルティエにワープポータルを記録しているプリーストは少ない。

「なんでって、決まってんでしょう」

 言っていて自分で可笑しくなった。ツイードは得意気に笑いながらスルガを見る。

「ネタです」

「でしょうけど!」

 何もルティエじゃなくたって、とごにょごにょ呟く彼は、自分からこの状況を作る種をまいておいて往生際が悪いようだ。

「どーします? とりあえずダンジョン入りますか? 中は雪ふってないし」

 ツイードが目の前のダンジョンを指さして首を傾げてみせれば、隣で両腕を抱きながら歯をガチガチさせているスルガがコクコクと大袈裟に首を縦に振った。

 ダンジョンなら、ここよりもましな環境で話もできるだろう。まあ、モンスターも出るのだが。



 ダンジョンに入って、何となく二層に来て、そのまま何となく狩りをしてしまった。甘ったるい匂いの中で、思考回路までが鈍くなってしまう。こんな手癖のように倒される敵も堪ったものではないだろう。

 一旦モンスターの波も引いたころ、適当な階段に腰を掛けてツイードは懐から煙草を取り出した。

「吸ってもいいですか?」

 相手が頷いたのを見て、先端に火をつける。教会の規則では飲酒と喫煙はご法度なのだが、他の冒険者の例にもれずツイードもそんなもの守っていない。今となってはもはや、その二つ抜きに他人との間をどう保っていたのか思い出せないくらいだ。

 適当なところを固定位置にして、寄ってくるモンスターを適当に倒すだけの、やる気もない狩りをしている――という建前のもと、ツイードは話が始まるのを待っているのだが、スルガは黙っているばかりで、時折来るモンスターを、八つ当たりのように叩いていた。

 あまり意地悪く待ち続けてもさっきのようになってしまうだろうと、ツイードは自分から話を切り出してやることにする。


「で、聞かせてくれないんですか」

「へ?」

 力任せにカタールで切り付けていた小人のモンスターにとどめを刺し終えると、スルガはぎこちない笑みを浮かべながら振り返った。

「告白に至るまでの経緯」

 言ってからツイードは煙を吐く。そのまま手にとった煙草を彼にむけ、「いりますか?」と首を傾げてみたが、彼は小刻みに首を振った。

「経緯って……」

 スルガが口ごもるので、ツイードが割って入る。

「つーか、俺、水差しちゃったんで、まだちゃんと聞いてないんですよね、告白」

 促すと、スルガは顔を紅潮させ、肩をかしこまらせた。

「あ、あ、ですよね……!」

 そして、ルティエに誘ったとき同様、カタールをぎゅっと強く握り締めてから強い目線でこちらを見てくる。


「俺、ツードさんが好きなんです」

「はい」

 そこまではいい。ツイードはじっとスルガの瞳を見る。

 座っている自分の真正面に立つせいで、スルガの影が顔に落ちてくる。逆光のシルエットだと、彼の姿は余計にきれいだった。


「で、俺と、付き合ってほしいなぁって、思ってたんですけど……」

「……」

「……ツードさん?」


 なんだ、普通の告白じゃないか。そう思った。別にどこもおかしくない、どこにでもある普通の、ごく当たり前の告白を、今自分は受けている。

 思いもよらない同性のアサシンが相手だったものだから、変に身構えてしまっていた自分にツイードは気づいた。

 何か、とんでもない提案をされるのかと、無意識に考えていたのかも知れない。具体的なことは何も考えていなかったのに。

 一回ヤらせて下さいとか、俺を奴隷にして下さいとか、そういうのではないようだ。


「付き合うって、恋人としてですか?」

 尋ねると、スルガはこくりと首だけで頷いた。

「それって普通の恋人、って意味で、いいんですよね?」

 目を逸らさないまま、相手はまた頷いた。

「じゃあ、返事はノーです。ゴメンナサイ」

「……!」

 さっきまでと同じ単調な口ぶりで言ったつもりだったが、スルガの瞳が突然うるっと濡れた。寄せられた眉は、捨てられた子犬のようだった。

 豹変した表情に、可哀そうだとは思ったが、でもそれ以上にその変化は面白かった。酷だろうか。


「だって、俺、されるのはちょっと」

「され……?」

 表情はそのままに、スルガは首を傾げる。仕方ないのでツイードは言葉を補った。

「セックス。ぶっちゃけ、挿れられるってことでしょ?」

「!?」

 ビクっと引きつってから、スルガは両手のひらをこちらに向けて、ストップのジェスチャーをした。

「ど、どっからそんなトコへ飛ぶんですか! 俺はただ」

「でも、恋人なら普通、するでしょ」

「…そりゃ、……するかも、しれないけど…」

『かも』かよ。と、ツイードは心の中で呆れた気持ちになる。


(いやいや、するだろ。したいんじゃねーのかよ。どうせ散々ヤっただろ、妄想で)


 ムっとした一瞬の内に自分の中の一番キツい人格がそんな言葉を並べたてたが、本心的にはそれの半分も思っていなくて、それを理性で理解するために、ツイードは大きく煙草を吸って、ゆっくりと息を吐いた。

 紫煙が空気を流れていく。

 背後にちらりと動く物体が見えた。

「あ、うしろ、敵」

 ダンジョン内なので、こんな時でも襲ってくる敵はお構いがない。

「え?」


 驚いた表情を見せたくせに、振り返りざまにはもうカタールが構えの体制に入っていたのだから、スルガはやはり腕の立つアサシンだ。

 彼が踏み込んだ瞬間、刃の軌跡が下から弧を描いて、モンスターは斜めに切り上げられる。

 確実に急所だけを狙う、クリティカル型の戦闘タイプ。その中でもスルガは、ほとんど攻撃を外すことがない腕前だった。

 あの溜まり場の冒険者連中は、馬鹿な騒ぎを好むけれど仕事はきっちりとこなすから好きだ。息を呑む間もなく、簡単にとどめが刺されて、敵は塵屑と消える。


 クリスマスデコレーションされた建物と、カタールの刃物の鋭利な輝きが、どうにも噛み合わない。

 それに引っ張られて、思考回路もまともな状態を保てないままだ。

 もしかしてだからこそ、ここは告白の場に最適なのかもしれない、と、見当違いな仮説が、ツイードの頭の片隅で転がっていった。


 アサシンの、攻撃が終わったあとの後姿は、なんだかとても澄んで見える。

 武器までが身体の一つになったような、美しい流線形のシルエット。

 スルガが、モンスターの血糊を払うために両腕のカタールを下に振りおろして、その音と共に彼の影がアサシン特有の形になった。

 目の前で起こった殺戮と反比例して、それはすごくきれいだ。

 体のラインの周りだけ、空気が澄んでいるようにさえ見える。

 完璧な造形をしたアサシンの、伏せられた瞼。薄く開かれた唇から、吐かれる息。静寂の中で唯一許された、生き残った者の吐息。

 そして彼がゆっくり振り返る。


「あの、話、戻しますけど」

 一瞬、なんのことか分からなくて、ツイードは我に返る。

「あ、はい」

 反射的にした返事と共に顔を上げると、スルガと視線が合った。

「そういうの、あんまり考えないで、俺と付き合ってくれませんか?」

 だって、普通のカップルでも、告白の時からいきなりそんなこと考えないでしょう? と、スルガはまっとうな理由を言ったのだが、その言葉はあまり頭に入ってこなかった。

 そんな理屈抜きで、ツイードは彼の言葉に頷きたくなる。

 肯定してみたい。


 気づけば自分は、こくりと首を縦に振っていたのだった。






1-4



 ダンジョンといえど、ルティエはあまりに寒かった。

 用事が済んでしまえば、こんな思考の鈍るところにいつまでも居られない。

 さっさとプロンテラに帰ろうとツイードはスルガに提案し、うやむやの内に彼の曖昧な返答を了承と取った。

 スルガのほうは、自分の告白が結果的に受け入れられたかそうでないのか――たぶん前者であることは気づいているのだろうが――分からない展開に動揺したまま、終始なにか聞きたそうな顔をしていたが、ツイードは面倒くさいのでそれらを無視した。

 ワープポータルを詠唱しながら、このまま帰ってどうするんだとツイードは内心考える。ルティエから逃げ帰ったって、スルガと二人きりなことに変わりはない。

 いや、でもそれも、いいかもしれない、とツイードは思う。

 スルガと二人で、彼が何をするのか、多少興味があった。



 ところが、ポータルをくぐると、溜まり場には仲間が帰ってきていたのだった。

「あ、ツードさん、と……スルガだ!」

 収集品の分配をしていたらしい彼らは、ツイードとスルガの顔を見るなりパっと顔の色を変える。

 仲間の存在に、安心半分、気落ち半分、ともかく座ろうと思ったが、なぜか皆が一斉に瞳をきらきらさせて自分達を見ている。腰をおろすどころではない。

「どこいってたんですか?」

「ルティエですけど……」

 あ、とスルガが返事を止めるような仕草をしたが、ツイードの口がまわってしまうほうが早かった。

「やっぱりーーー!!」

 溜まり場の仲間内でも特にスルガと親しいグループのアサシン、スミが「スルガの乏しいおつむじゃ、せいぜいそこだろうと思ったよ!」と腹を抱えて笑った。

「で!? それで!?」

「それでって……?」

 詰め寄る仲間達にそう聞き返しながらも、ツイードはなんとなく話が読めていた。

 振り返ると、スルガは気まずそうに視線をそらしている。

 まあ、いいか、と思った。流されたとは言え、結果的に承諾したわりには散々いじめてしまったわけだ。優しくしてやらなければ彼も割に合わないだろう。


「OKしました。今日からカップルです」

 一瞬静まり返ったが、次の瞬間には封を切ったがように彼らは冷やかしはじめた。わあわあと大袈裟に騒いでは「今日の打ち上げは宴だー!」と勝手に飲み会を設定している。仲間の一人に肩を組まれ、ツイードがはいはいと彼らをいなす中で、視線がふいにスルガと合った。

 ツイードの発表に、一番びっくりしていたのがスルガ自身だったのが、なんだか少し可笑しかった。






1-5



「告白されたのってルティエのどのへん?」

「ダンジョンですけど?」

「えー! なんでそんなとこで!」

「ってかツードさんってフリーだったんだ?」

「どんな条件でOKしたんですかー?」

「ふっかけたんでしょ?」

「ハハ! その手があったか、やっときゃよかった」

「たいていの条件ならいけたよ多分。だいぶ熱あげてましたもん」

 散々騒がれた後めでたいから収集品の利益で奢ってやるといわれて、酒場まで連れてこられてからずっと、飲み会は自分たちの話題で持ちきりだった。ツイードは普段、これほどまで宴会の中心に居座ることがなかったので、あちこちから振られる話に答えるだけでも一苦労で、ゆっくり酒を飲むどころではない。平素はそれほど深入りしてこない連中までここぞとばかりに自分をつついてくる。

「もう、お前らやめろよ、ツードさんイジんな!」

 ツイードを質問攻めにあわせていた女性陣をスルガが両手で追い払った。

「おいおいなんだよスルガー。いきなり彼氏面かー?」

「ちっさいなぁ、もう」

「調子のってたらすぐ振られますよー?」

「リサさんまで……!」

「あーもうハイハイ、どきますよ、どーせ横に座りたいだけだろうが、このドスケベ」

「ちが!」

 咄嗟に否定してみせるスルガを見上げながら、別に何も違わないだろう、とツイードは思う。ただ、のべつ幕なしに浴びせられる質問から解放されるのならば、理由はどうだっていい。

 不服を言いつつも撤退していく彼女らが、遠くから「まけんなヘタレー!」と応援だか悪口だか分からない声援を飛ばした。

 それに「うっさいよ!」と見送りながら、スルガはツイードの隣に腰をおろす。

(やっぱ座るじゃん)

 ここで座らなくてもおかしな話ではあるが、結構ふつうにちゃっかりしてるアサシンだ。

 もしかして本当に自分の隣に座りたかったからこちらまで来たのだろうかと疑問に思うこの感情は、どこか『期待』と似ていて、少し奇妙だった。


「あの、すいません、なんか」

 注文した酒がすぐに目の前に置かれてから、スルガはツイードを気遣うように言った。

「いやあ、まさかここまで知れ渡ってるとは思ってなかったですけど、まあ平気ですよ」

 仲間たちの盛り上がりからみるに、これは告白をばっさり断っていたら、ツイードが考えていた以上の大惨事となっていたことだろう。そうなってしまえば、溜まり場に顔を出すのが気まずくなっていた可能性すらある。それは勘弁したいので、結果的にはこれでよかった。

「俺、顔にでちゃうみたいで…。内緒のつもりがそっこうバレたから、ついでに相談とかのってもらってました」

「あー……」

 ということは、結構前から自分のことをそう見ていたのか、とツイードは記憶を巡らす。どの記憶にも、その形跡がまるで見られそうにない。顔に出やすいらしい男の機微に、どうして気づかなかったのか。自分には全くそんなつもりがなかったから、そのバイアスなのだろうか。一体いつから、そういう目で見られていたのだろう。自分が意識しないところを見られている気持ちは複雑だ。

 ぼーっと考えながら、フライドチキンをつまんで口に放り込む。

「あの、」

 気づけば、会話の流れを変えようと、スルガが言葉を選んでいる。ツイードは鶏肉を何度も噛み締めながら、その続きを待った。

「本当に、アレ、その……いいんですか? 付き合うって意味で」

「はい?」

 ツイードは思わず強く聞き返してしまう。それを機嫌の悪い声と取ったようで、スルガは逸らしていた視線をこちらに寄越し、弁解するように早口で言った。

「いや、だって、初めはダメだって言ってたのに、ツードさん急に頷いたかと思ったら、すぐポタだしちゃうし、確かめようにも帰ったら皆いたから聞くに聞けなくて」

「説得したのはスルガさんでしょうに」

「そうですけど、あれはやっぱり変でしょう」

「ですか」

「ですよ」

 ツイードは黙って白ワインを飲み干した。度数の高いアルコールに軽く咽喉が焼けたのを、頭は冷静に感じ取っていた。


「スルガさんの、押しに負けたっていうんじゃ、だめですかね」

 瓶からグラスへワインを注ぎながら、ツイードはつぶやく。

「しぶしぶみたいじゃないですか、それ」

 言葉こそ悪いが、そう取って貰っても別に構わない。けれどスルガはそれが不満なようで、そういうのが少しわずらわしいとすら思う。

 付き合ってくれと頼んだ側が、それを了承した自分に、一体なんの不満があるのだろう――と、理不尽な思いが頭をよぎったが、自分の取っている態度が彼のその後の人生を左右する決断のわりにはあまりに不誠実だということは分かっていたから、自分の中で上手く論理のすり替えが出来なかった。

 実際、渋々、というわけではないのだ。ツイードの中にはもっと自発的な、軽い欲求のようなものが確かにあった。

「んー……」

「ないんですか……? 理由とか……」

「理由たって……ほんの数時間前まで、思っても見なかったことだし……」

「OKした理由だけですよ?」

「えー……。言われてもなぁ」

 ツイードが言葉を濁らせれば濁らせるほど、スルガは不安そうな顔をした。

「一回はダメだって言ってたのに、意見かわったっていうのは、なんか思ったんでしょう?」

「そーですねぇ」

 ツイードは持て余したワインを少しずつ口に含みながら、自分の感情の一部を言語化しようと試みた。けれどきっと、どんな風に言っても自分の正確な意味は分かって貰えないだろうなという予感も、どこかにあった。

「スルガさんが誘うから、……俺もその気に、なっちゃったんです」

 多少酔った顔で微笑んで見せると、スルガは急に照れた顔をしてそっぽを向いた。ツイードはどうやら本当に好かれているらしいというのを淡く実感する。

 いや、もしかすると、お互いにこの状況に酔っているだけなのかもしれない。

 だけど妙に、気分が良かった。






1-6



「だー! 吐くな! 吐くなよ!?」

 酔った騎士、ルシカをおぶったまま、ハンターのマシューが心配そうにそう叫んでいる。

「どりょくする…」

 だらんと腕を垂らし、彼女は青ざめた顔でうなだれた。

 いつのまにか仲間内もそこそこに飲んだらしく、酒場の一角では解散ムードが漂っていた。

 遠くの状況を見守っていたツイード達のすぐ後ろに、いつのまにかプリースト、オーフェンがやって来ていて、肩を叩かれてから声を掛けられる。

「おい、こっちはもう帰るけど、どうする?」

「あー、うん。適当に帰る」

 ツイードが答えると、そうか、とだけ頷いてオーフェンはスルガに言った。

「じゃあ、あのへんの、全部連れて帰りますから、またこんど」

「あ、はい、どうも」

 話し掛けられたスルガも咄嗟に返事をしたようだったが、しばらくしてオーフェンが「邪魔者は退散しますから後はごゆっくり」とほぼ同じ意味のことを言ったと分かったらしく、一人でまごついていた。

「ツードさん、ばいばーい!」

「きをつけてくださいね~!」

 呂律のまわっていない声が飛んでくる。ツイードはそれに軽く手を振った。

 『気を付けて』という言葉を聞いて、『いざとなったら抵抗して逃げることくらいはできるだろう』などという事を連想する。

 いやいや、一体なにを想定しているんだ。ばかばかしい。可笑しな発想に口元が緩んでしまう。

 アサシンとプリーストという職業柄、どうしても歩が悪いことも認めはするが、妄想が先走りすぎている。

「えっと、」

 スルガが今後の身の振り方に迷ったらしく、席を立ちかけたまま止まった微妙な雰囲気で言葉を濁した。

 その様子を眺めたまま、ツイードは何か声をかけようとしたがちょうどいい言葉が見当たらない。

 スルガ本人には悪いが、彼は焦っているのが妙に似合う男だ。溜まり場の連中がこの男をからかいたくなる理由が分かる。

 情け無いのが面白いというか、好感を呼ぶというか。

 可哀そうなのが、可愛い?


(うん、これだな)


 スルガを見つめながら、ツイードは思いついた言葉に一人納得した。

 実際の彼の顔は、格好いいとも可愛いとも違う、なんの変哲もない一般平均のような造りなのだが、それはとどのつまり欠点らしい欠点がないということだろう。

 腕前といい、顔といい、彼の長所はいつも目立ちにくい部分にある。

 勿体ないな、と単純に思ったが、もしかしたら彼の良さを理解する人間が少ないならそれはそれで、自分一人だけで長く噛みしめて味わいたいかも知れない。

 黙ったままのツイードに、スルガは少し困ったようで、小首を傾げて尋ねてくる。


「どうかしました?」

「あー……、じゃあ、そろそろ帰ります?」

「そうですね。ツードさん、宿どこですか?」

「教会の通りの裏側です」

 ああ、とスルガがしばらく黙った。どうやら方向が違うらしい。少し悩んでから、「じゃあ送ります」とスルガは腰をあげた。

「え、いいですよ」

 ツイードは驚き、断った。

「そうですか……?」

「別に危なくないし、というか、危なくても大丈夫だし……」

 ツイードだって、いい歳をした成人男性で、しかも一応は冒険者の身である。今まで、人を送ることはあっても送られることはなかったから、なんだか突然変な提案をされた気分だった。

「あーでも、……そんなこと言わないで、送らせてくださいよ。付いてくだけですから」

「それは、まあ、構わないですけど……」

 食い下がってくるスルガに、そうは答えたが、それはツイードの本心ではなかった。

 そもそも、この行為自体に、言いようのない違和感がある。

 意味の無いことをしておいて『送った』だとかいうのは、そういう事がしたいだけの、この男の自己満足なのではないだろうか。彼が、こちらを『その役』へ嵌め込もうとしてくることに、座り心地の悪さがあった。

 もちろんスルガには、おそらくそんな大層な悪意はないだろう。それは分かる。分かりはするが。

「んー…」

 なんとなく嫌だけれど、だからといって頑なに断るのも自分のポーズではない気がする。仕方が無く、ツイードは別案を提示した。

「じゃあ俺のほうがそっちまで行きますよ。同じでしょう」

「えっ?」

 スルガは驚いたようだったが、ツイードはさっさとそう決めて酒代を払い、出口へ向かう。

「え、でも悪いです」

 後ろから慌ててついて来るスルガに『なんでだよ』と思ったが、戸を開けた瞬間、心地のよい夜風が頬を撫で気分がよくなった。

「スルガさんの宿屋って、どこです?」







1-7



 冒険者なんて言えば聞こえはいいが、結局のところは大半をその日の風に任せてしまうような職業である。

 最近こそ、過去の経験から学んで身近な人間に手を出さないようにしていたものの、その日パーティーを組んだ人間と流れで行きずりに寝てしまうなんていうことが、ツイードにはままあった。おそらく、ちょっと抜けたところのあるスルガだって、いくら清純そうでも恋愛倫理に関して言えば、程度はさして変わらない同類だろう。


 宿までの道、たわいも無いことを話すスルガに相槌を打ちながら、ツイードは今日のこれからのことより、来週、再来週先のことを考えていた。

 ルティエのダンジョンで、ふとスルガに触れてみたいと思った感情を、あまりにストレートに受諾しすぎたなぁと内心すこし反省する。僅かな欲求に対して、短絡的だったかもしれない。

 例えばこのまま破局したとして、溜まり場の連中にはなんて話そう。始まってもいない恋の行方をさぐるのは、とても変な気分だった。


 不思議と、スルガを愛するだろうという予感は、ツイードにはなかった。教科書的な、一般の意味での恋愛の、愛だ。

 そういう長いスパンで、周囲に認知されたまま、お行儀よくお付き合い――なんて、できる気がしない。

 正直、行きずりのほうが気が楽だ。

 今まではなんとなく、自分は男だから下心があって、だからこんな下衆い発想をするのだろうと思っていたが、スルガ相手の場合だと、その言い訳が使えない。男だからではなく、単純に自分が下衆だということになる。

 いや、はたして、自分はそれほどまで劣悪な類いの男なのだろうか。


 ただ、よく往来で耳にする恋人たちのような感情を、自分がスルガに抱くとは思えない。

 そこまで考えて、ツイードはふと、そういえば今までどんな人間に対してもそんな気持ちを抱いた事がない、という事に気付く。

 と、なれば、今まで数人と拙い交際を繰り返したが、あの人たちのことは愛してなかったのだろうか、とツイードは自分に問いかけた。恋人たちが囁きあう愛。

 そもそも、愛というのは、一体何か。


「だからもうベルト挿しでいいんじゃねえのって最近、つい誘惑が。重いもん持つのは慣れてるし。転売は出来ないだろうけど、どうせ俺がずっと持つわけだしなぁ…とか」

 頭の中で回っていた下らない哲学みたいな考えを一旦捨てたところで、スルガの言葉に意識が向いた。我に返って聞いていると、さっきから話題は随分すすんでしまっていたらしい。聞いていなかった間の話を推測で補いつつ、ツイードは妥当な返事をする。愛がありすぎず、なさすぎずの、そんな返答。


(また、愛か)

 なんだか思考が堂々巡りしている気がする。


「二刀と違って、カタールは一択だから、武器を考える楽しみとかは無いですよね」

「でもまあ、んなことも言ってらんないしなぁ。ツードさんとかも装備固定でしょ?」

「俺なんかは、戦闘中のスキル選択がありますから。次、何かけてやろうかな、っていう」

「それはそれで誘惑の多い選択ですねー」

「あと一撃当たったら死ぬだろうけど、ヒールよりグロリでも確率は半々かな、みたいな」

「ひでー!」


 スルガが笑って、夜の街にはその笑い声が昼間より少し大げさに響いた。

 彼が名を告げた宿屋が、もう視界に入ってきている。スルガもそれに気付いて、ちらりとこちらに目をやった。

 その視線が、何を期待しているのか、ツイードには分からない。

 分かっているのに分からないふりをしているわけではなく、本当の意味で分かっていない。この男が自分との関係を、どう詰めてくるのか、想像が付かなくてむしろ興味がある。

 まさか送り狼を期待しているわけではないだろう。セックスを理由に断ったツイードに、そういうのは後回しで、と返したのはスルガのほうだ。

 肉体関係に対して躊躇うような純真さは持ち合わせていないが、今、自分の感情の詳細を理解してもらえる宛もまったくなかった。細かいことを説明するのは面倒なので、するかしないかの二択なら、しない。

 考えながら歩いているうちに、スルガの話はいつの間にか止まってしまった。


 会話が再開しないまま、宿の入り口にまで辿り着く。

「あ……ここです」

 スルガは立ち止まり、しばらく間があったが、ツイードが「それじゃあ、おやすみなさい」と踵を返すと、案の定なのかスルガの引き止める声がした。

「ま、待ってください」

 ツイードは足を止めて、振り返る。


 彼が何を言う気なのか興味があって、呼び止められたまま黙っていた。

 スルガは言おうか言うまいか思案している様子で、落ち着きなく視線で床を往復している。

『泊まって行きませんか』では、無いだろう。ツイードは躊躇うスルガを眺めながら次にくるセリフのシナリオを考える。

『また明日』なんかじゃあ、ヘタレすぎる。これを言うためだけにこんなに挙動不審になるぐらいなら、これから先が思いやられやしないか。そんなはずはない。


(無難にキスかな)

 ツイードの結論はスルガが言葉を発する前に出た。

 溜まり場の連中の傾向からいえば、ここでキスだけというのも手が遅いぐらいだ。一度断った理由のこともあるし、スルガの性格からいって、これで恐らく間違いないだろう。

 ずっと地面を這っていたスルガの目が、そこでようやくツイードに向いた。

 彼の口が開き、ツイードが頭の中で次のセリフを先読む。『キスしても』

「だ…」

 しかし、やっと開いたスルガの第一声がその音だったので、ツイードは鸚鵡返しに尋ねる。

「だ?」

 だいすきです? 

 まさか。そう思う前にスルガが言葉を続けた。

「抱きしめて、いいですか?」

「え…」

 ツイードの思考は一瞬止まった。


(……。ふぅん、そう出るか……)


 ツイードはなんだか妙に感心してしまって、まじまじスルガを眺めていた。告白前後にかわした言葉を、彼は律義に守っている。お付き合いのステップを、そんな初期のところから始めるのか。慎重というよりは、丁寧だなという印象を持った。

 自分の提案に肯定も否定もしないこちらの態度を見て、スルガは後者と取ったらしく、慌てて言葉をひるがえす。

「あ、いや! ダメなら」

 別に、と言いかけた彼を、ツイードは遮った。

「俺からなら、いいですよ」

「へ」

 スルガは意外そうに顔を上げたが、ツイードの予想以上に動揺しなかった。

「あ、じゃあ、……おねがいします?」

 素直にそう言われ、『なんだこの状況』と不可解な気分になりながらも、ツイードは腕を伸ばしスルガの肩に手を置いた。

 半歩前に踏み出す。身長が同じぐらいなので、抱きしめにくい。

 後頭部を抑えてスルガの体を自分側に引き寄せると、首元から人肌の匂いがする。

 スルガは自分の腕をどこへやったらよいか分からないらしく、ただ立っているだけにしては不自然な位置まで手をあげたものの、その場でかたまっていた。


(……硬い。いや、案外柔らかい?)


 人を抱きしめるのが初めてというわけではないが、これほどゆっくりと意識して手順を踏みつつ抱きよせた経験は、考えてみると過去にはなかった。

 男だろうと、女だろうと、こんな行為は普通にするじゃないか。思いはしたが、ただ抱きしめるためだけに抱きしめているこの行為は、不必要な気恥ずかしさがある。おそらく、相手もこの不思議な気まずさを感じているのだろう。それでも、触れた身体越しに、彼の心臓の脈を感じる。

 人肌の温度が、夜の空気に心地よかった。


(……うーん)


 痛いのは嫌だが、気持ちいいのは、好きだ。

 キスぐらいならいいか、という心構えであったものだから、なんだか肩透かしを食らった気分でもある。


(ちょっとぐらいなら、いいよな)


 スルガの匂いがする首元を見つめながら、ツイードは冷静なつもりで冷静じゃないことを考えた。

 プリーストのくせに、自分はまったく倫理観が緩い。下らないことを考える余裕はあるくせに、自制するだけの意気地はない。

「……」

 何の断りもなく、スルガの首筋に唇を寄せる。隠れて悪戯をするような高揚が相まって、場所が場所だけに、こっそり血を吸うヴァンパイアを連想してしまった。

 吸い付いたせいで、ちゅ、と音がなる。

 ピク、とスルガの身体が一瞬、収縮した。

「な、なに……」

 口付けられた場所をスルガが手で抑え、寄せていた体は自然と離れていった。

「ああ、ごめんなさい」

 ふいに、今のは自分が悪いなとツイードは思って、するりと謝罪が口から出た。

 しかし、彼の目を見て物を言う前に、スルガに力強く腕を引かれる。

「あ」

 力に抗う暇もなく体重を傾けると、唇がスルガのそれに触れた。

 腕を引かれた力には驚いたが、行為自体にはさほど驚かなかった。

 ゆるっと唇に彼の舌が触れる。それにぞくっとした。気づけば無意識に受け入れて、自分からも彼の舌を追ってキスを深めていた。

 絡めて、口内を吸われると、軽く酒が入っていたせいもあって、心が浮遊感に加速していく。ああ、そういえばキスってこんなんだっけ。しばらくしていなかったので、感覚を忘れかけていた。

 ぼんやりとしてきた頭が、さすがにまずいと我に返り、ツイードから身を引いてその口付けが終わる。息をついて、濡れた唇をぬぐった。


「ッ、すみませ……!」

 慌てたスルガがさっきのツイード以上に謝ったが、煽ったのは自分だという自覚があったから、いやいや、と彼を手で止めた。

「うん、まあ、今のは仕方ない、ですよね」

 なんだか自分に対する弁解みたいだ。遅れてやってきた地味な焦りを内心で押さえつけて、ツイードはスルガの顔を見た。彼の頬は朱く染まっていたが、眼光は強いままだった。瞳の奥を、覗き込まれているみたいだ。


「じゃあ今度こそ、おやすみなさい」

「あ、はい。おやすみなさいっ……」

 スルガが答えたのを確認して、ツイードは踵を返した。


 夜中とは言え、一般街道で何をやっているんだ自分は。宿屋とスルガに背を向けてしまえば、彼が見送る視線を受けている最中であっても、冷静にそう考えることができるのに、さっきは急に降って湧いた誘惑に抗えなかった。

 じわじわと、スルガが好みのタイプであるんじゃないかという予感が頭の隅から染み出てくる。

 ただ彼が男であったから、気付かなかっただけで。

 もしかすると、本当にそうかもしれない。


(まずいなぁ……)


 何故か、それは嫌な予感のような気がした。

 付き合うことになった人間を、好きになる予感のどこが悪いというのだろう。ツイード自身、自分でも分からない。

 ともかく、判断力を失うのはよろしくないだろうと、先ほどの思慮浅い行為を、少しだけ反省する。

 夜も更けた街は首都といっても足元が暗く、宿や店の窓から漏れ出てくる四角い明りが、点々と地面を照らしている。酒が抜けきらないような、重さを持った熱が脳の一部に居座ったままだ。

 後方ではまだ、スルガが自分を見送っているのだろう。

 ツイードはそれに、振り返らないまま帰路についた。