夜の凶器とその手段
ときどき、怖いほど冷静な狂暴さにかられる夜がある。
部屋の中の、なんでもない引き出しから突然、腕ほどのナイフが出て来たような気分だ。こんな大きな刃物、しまった覚えも持っていた覚えもない。何故ここにあるのかも分からない。
そのよく研ぎ澄まされた大振りの刃を、ただ眺めている夜みたいだ。指先で冷たい金属の感触を確かめるその単調で当たり前で自虐的でもある行為が、今夜の沈黙そのものだった。
そういうとき、ツイードは自分のことを「所詮、俺はこういう人間だ」と落胆したような気持ちなる。
いくら日常をまともに過ごそうが、きちんと自活できるだけの金銭を稼ごうが、結局、自分の根本的に欠落した人間性はなくならない。本当は自分のそれを明確に理解しているはずなのに、普段の生活では忘れているふりをしているのが無駄なあがきのようで滑稽だ。いや、笑えない。あるのは疲弊した虚無感だけだろう。
ベッドの上で、体を起こす。
眠れないだけで何をこれほど悲観することがあるのだと思う気持ちもあるにはあるが、「いつものこれだ」という覚えのある自己嫌悪が頭の容量のほとんどを支配していた。
アコライトのころから何も変わらない。
努力すればもっと上に行けたのだろうが、その努力ができなかった。自分の人生に没頭することができない。理由もない疎外感だけが常にある。自分の魂のコントロールが、自分の手中にないように感じている。都落ちしたプリーストはみんなこういう言い訳を頭の中に飼っているのだろうか。苦しくなった時に取り出して舐めるためだけの飴玉みたいな言い訳だ。馬鹿馬鹿しい。
何もかもが厭になる。
全部、何もかもだ。自分が普通の人間になろうとして平均値によせていっている全部の努力が、とてつもなく下らない徒労に思えてくる。そもそも普通になろうと考えること自体、まともな思考じゃない。
優れた一握りの人間にならなくたって構わない。なれないことにだって何の名残惜しさもない。
ただ、教会勤めを辞めれば普通の冒険者になれるのだと漠然と思っていた自分は、何も分かっていない馬鹿だった。
たぶん、自分はプリーストとして強い、とツイードは思う。
自分を俯瞰してみると、そういう事実がきちんと理解できる。
自分はある程度優秀なプリーストで、だから冒険者として生活が成り立っている。
それはあのたまり場にいる連中全員に言えることだ。実力がなければ狩りにいけない。同情や共感だけではどうしようもない戦闘スキルの必要性がそこにはあって、それが狩りを共にする最低条件だった。
それをクリアしている自分は、十分な能力を備えた冒険者だ。
必要十分なスキルを自分は持っている。
食いぶちはある。人間関係に不満はない。周囲の期待にも圧力を感じない。信頼と責任によって、自分の行動の自由は保障されている。
まったく順調な人生だ。
なのに、どうして、この部屋には狂気があるんだ。
夜になるとそれが見えてしまう。自室のなんでもない引き出しに入っている狂暴性の存在を、思い出してしまう。
胸をかき乱されているようだ。
明日の朝になれば、全部忘れてしまえるだろう。日の光が窓から差し込めば、気だるい瞼の重さとほどよい空腹が自分を眠りから引き上げるに決まっている。
早く眠ってしまいたい。
そうでなかったら、もう、いっそ、この部屋をぶち壊してしまいたい。
引き出しから取り出した刃物で、ベッドも棚も本も道具も窓も床も入口のドアも、全部ずたずたに引き裂いてしまいたい。絶対に、そんなことはしたくないはずなのに、体の内側から沸きあがってくる怒りに似た興奮が抑えられない。治まらない暴力的な感情が、自分の精神をぐちゃぐちゃにしていくのを、なす術もなく堪えるだけだ。
落ち着け。
壊したくない。
そもそもあの棚の引き出しに、刃物なんてない。
架空の凶器に振り回されているだけだ。
脳は疲れ切ってしまっている。身体は睡眠を求めて力が拡散していくのに、異常に興奮した一部の神経のせいで眠りはいつまでたってもやってこない。
眠らせてくれ。そう心に強く念じてみる。
気持ちを上書きするように、強く強く考える。
眠りたい。俺はもういい。全部満足なんだ。眠らせてくれ。
頭の中で散らかった言葉たちが、段々と広がって消えていくのがうっすらと分かる。
言葉を無くした感情たちが、凝縮する手段を失って、少しずつ曖昧になる。
一人だと、こうするしかない。
今までずっと、こうやって強制終了させてきた。
これだから、一人の夜は碌なことがないんだ。
ツイードは思う。
馬鹿でも愚かでも下らなくてもいいから、惨めでお為ごかしで慣れ合いだってそれで十分だから、普段馬鹿にしていることは全部全部謝るから、
俺には、あの人が必要だ。
怒りは消え、入れ替わるように睡魔が思考の幕を下ろしていく。
近頃、スルガの居ない夜が、呆れるほどに、困難だ。
2020.08.02