ハニー
宿部屋でテオが出したハチミツを見たディーユは、ふいに笑ってこう言った。
「ああ、恋人の日だから?」
テオが貰ったハチミツだ。
くれたのは、教会の同僚だった。たくさんあるからお裾分けなのだと彼女は言っていて、渡されたのは透き通った琥珀色をした小瓶。
手のひらに収まるほどの小さな瓶だったから、使い切りサイズだなと思ったのと同時に、これの使い道が決まった。
だからテオは、お気に入りのチーズとワインを買って、ディーユとの待ち合わせ場所に来たのだった。
ハチミツは、チーズにかけて食べるつもりだった。それが恋人と何の関係があるのか、テオには分からない。恋人の日なんていうものがあることも、それが今日だということも知らなかった。
「へえ? それって何する日?」
「ええ? 別に何する日でもないと思うよ」
「これって、恋人の日に食べるもの?」
「ハチミツだったから。あれ、知らなかったんだ」
街では結構やってたよ。ディーユは軽く話しながら、ワインの栓を抜く。彼は宿備え付けのT字のオープナーではなく、自前の折りたたみ型のそれでいつもそっけなくコルクを外して見せる。一度、貸してもらったことがあったけれど、自身で抜いてみると、なんだか味気ないワインになってしまった。おそらく自分は、ディーユがポケットからそのスクリューを取り出す時点から、ワインの味を楽しんでいるのだとテオは思う。
宿のグラスに、ディーユがワインを注いでいく。
「ちょっと期待しちゃったな」
「あれ、俺、期待うらぎっちゃったの? ごめんね。頂き物なんだ」
チーズは俺のお気に入りだよ、と言葉を足せば、ディーユは緩く微笑んで「じゃあ楽しみだね」と浅い声で言った。
その声だけで十分満足だったのに、テオは頭の中で件の疑問も追ってしまう。どうしてハチミツが恋人に? ディーユがグラスを目の前に置いた。
向かいの席に腰かける彼は、相変わらず完璧な居住まいだ。高く組まれた長い脚が、テーブルの外側に放り出されている。チーズを切るために、ディーユがグローブを外した。手首のスナップと同時に、ナイフの刃が回って、それがかちりと柄にはまる。流れるような一連の動作。チーズに埋まっていく刃物。それを持つ彼の手。添えられた人差し指。じっと眺めていたい――それからしばらく、彼という存在を味わっていたい。心ではそう思っているはずなのに、頭の片隅でずっと、「どうして?」という疑問が離れなかった。どうしてハチミツが? いや、逆に、どうして自分は気になったすべてのものを追わないと満足できないのだろう。
「ハニーだよ」
チーズを取り分けながら、ディーユが言った。
「恋人だから。ハニー」
ああ、とテオは全部を理解して、顔を上げる。目があったディーユは、口元だけで笑っていた。
「なんだ、そっか。それでハチミツなんだね」
ディーユはそれを否定も肯定もせず、はい、と皿をテオに寄越した。それから小瓶にフォークを刺す。
「好きな量かけて。それとも、俺がしようか?」
「うん、お任せしたいな」
「了解」
ディーユが持ち上げたフォークにはどろりと濃いハチミツが絡み、太い糸を垂らしながら皿のチーズに移動していく。その折り重なる布のような流れをみつめながら、テオはまた頭の中の疑問を口にする。
「ディーユくんは、ないの? ハチミツ」
「うん?」
ハチミツは、チーズにどろどろと落ちていく。細かい気泡が、ガラスのようで、飴細工のようで、動いているのに液体じゃない何かみたいに見える。
「俺に」
テオは視線だけをディーユのほうへ上げた。
「恋人の日の」
ディーユはフォークを何度か回して、粘る蜜を切り上げる。それから道具を片付けるためにテーブルを立った。その背を目で追いながら、テオはこれから食べるハチミツがけチーズの味を想像する。頭の中では疑問の名残がとれない。
「はは、期待させちゃった?」
ディーユが言った。
そうかな、とも思ったし、そうでもないな、とも思った。返答をどうしようか悩んでいる間に、片付け終わって戻ってきたディーユが得意げに笑って席についた。
そして、彼が座ったと同時に、テーブルには別の小瓶が置かれたのだった。
「まあ、俺は期待を裏切らないけどね」
「わあ」
テオの頭の中の疑問は、一瞬にしてすべて消し飛んだ。その小洒落た瓶を手に取り、その中身がもちろんハチミツであることを確認して、たまらない高揚感を覚える。
「やっぱり」
違和感の正体は、これだった。テオはそう確信した。それから、街でイベントの為に売られているハチミツや、それを手にする女の子の姿が、手に取るように分かった。自分が貰ったこの瓶も、そういうものだったんだと理解した。なるほど、それでこんなに小さくて、こんなに可愛い封がしてあったのか。そしてそれを商売道具として扱うブラックスミスの姿も、当然のように理解できる。
「これ、俺にくれるの?」
「もちろん」
「ごめんね? 俺、買ってなくて」
「それどころか、他から貰ってきたの、見せつけるしね?」
「あはは、それはわざとじゃないけど、でもひどいことしちゃったな」
ほんとにね、とディーユは相槌を打ったが、表情では穏やかな目で笑っていた。それを少し見てから、テオは小瓶に視線を落とす。
茶色の紙ラベルには、金色のインクで、花のマークと名称が書いてあった。
「これって、もしかして、色んな花のハチミツで、色んな意味があったりする?」
「あっはっは」
ディーユは大きく笑って、グラスを持ち上げる。予想以上に楽しそうな彼を見て、もっと興味深くなるから自分は厄介だ。
「さすがに、そんな。でも種類は沢山あったよ」
「あ、やっぱり種類はあるんだ」
「そうだな、全部見たわけじゃないけど、一棚だから……2ダースはあったかな」
「へえ、そんなに?」
「それがお口に合えばいいけどね」
チーズをひとかけ食べたディーユが、「うん、美味い」とテオに言う。そうでしょ、とテオは微笑み返しながら、でももしかするとそのハチミツを彼に食べさせるのは罪深い行為なのかもしれない、とぼんやり思った。今ここで食べるハチミツは、このハチミツであるべきで、彼女に貰ったものでは、ないのでは。
(一応、礼儀として?)
けれどテオはむしろ、彼女からのハチミツこそ、全部ディーユに舐めつくしてもらいたい。この思想のほうは、もしかしなくても罪深いだろう。ごめんね、と頭のどこかで考える。でも、全部ディーユくんに食べてもらうね。
知らなかった特別な日の、なんでもない夜は、当たり前の日常として過ぎてゆく。
今日はどこかテオの知らないところで、生まれるより沢山の恋が、消えていく日かもしれない。
テオは、ディーユがくれた瓶を眺めながら、まだ続く違和感の正体をゆっくり探す遊びをしている。
ヒマワリ、と書かれた文字に、あの花はハチミツになるんだなあと考えながら。
「……20種類以上あって、ディーユくんが選ばないわけないよね」
じっと彼の眼を眺めると、ディーユは最後に、やはり笑った。
「敵わないなあ」
「俺のセリフだよ」
2020.08.21