早く服を着ろ
片づけ切れなかった仕事を置き去りにしたまま、寮に帰ってきた。
残してきたのは、本当なら今日の内に他部署に回してしまいたかった案件だった。日が暮れ、辺りが暗くなってきてから他部署へは無理だな、と悟った。ならばせめて終わらせるだけでも、と机に向かい続けたが、腹と腰と首と集中力が限界を迎えて、結局すべてを諦めた。部屋のコーヒーが切れたのも大きな原因の一つだった。
寮の廊下を歩きながら、オズワルドは法衣の懐へと手をやる。
ポケットの中でロザリオといっしょくたになった自室のカギを、それだけ指で摘み上げる――なんていう日常の動作が、いつの間にか職人並みに上手くなっている自分に気づく。どんなに酔っていようが、今日みたいに疲れ果てて帰ってこようが、短い廊下を歩き終えて自室の扉の前に立つ頃には、手の中に鍵があるのだ。
プリーストになって、教会に勤めだして、もう何年が経っただろう。生活に熟練して、いっそ擦り切れるほど、知らない内に自分は歳を取っている。
ドアに鍵を差し込み力を入れたが、何故か回りきらなかった。思ったように動かずオズワルドはそれを抜く。予感がして、ためしにノブをひねると、やはり鍵がかかっていなかったらしく、あっさりと扉が開いた。
「おい、内鍵しめろよ」
部屋の中に向かって声をかけると、そこにいたロデリックが顔を上げた。
「よお。ご苦労だな、こんな時間まで」
兄は、人のベッドの上に靴まで脱いで座り込んでおり、随分くつろいだ様子で本を読んでいた。法衣のまま寝具へ腰を下ろすのは躊躇われたらしく、上着は脱いで椅子に掛けられている。
他人の部屋で半裸になることと、ベッドに外着のまま上がり込むことを、天秤にかけて前者を取ったらしい。
この男のそういう所作は、人を選ぶだろうがオズワルドは気にならない。むしろ衛生観としては好ましいほど近かった。同じ親に育てられたから当然といえば当然だが、同じ兄弟の中でも末の弟なんかは自分たちと少し違う感覚を持っていると感じることが多いから、やはりこの兄と自分は似ているんだと思う。
「何してんだよ、服脱いで」
自らも法衣を脱ぎながらオズワルドは兄に尋ねた。彼は視線を本に戻したまま「んー」と間延びした声を出したあと、退屈そうに返事をする。
「飯食いにいこうと思ってさぁ」
オズワルドは麻布のシャツを被る。髪を振り払って衣服を整えてから、兄にも着れそうな服はあったかと荷物を探しているあいだも、ベッドの上のロデリックはだらしなくくつろいだままだった。
「どうせすぐ帰ってくるだろって思ってたら、全然帰ってこねえから」
「執務室まで来いよ。寄るだけだろ」
「あんま、お前んとこに顔だしすぎるのもなーってさ」
「今更」
「まあ、だよなあ」
思っていた服が見当たらない。兄の方を振り返った。
服を着ろ、とオズワルドは思う。欲情するからじゃない。
実際、都合よいことに身体はなんの熱も帯びていない。あの男の裸を見て、自分はまだ冷静でいられる。それを確認しながらも、服を着てくれ、と頭では思う。
視線に気づいたのか、ロデリックが顔をあげてこちらを見た。
「なんで服着替えたの」
「こっちのセリフだよ」
「なにが」
「お前は、なんで、服着替えて来なかった」
「え?」
まるで分っていない顔をしたまま、ロデリックは体を起こして座りなおす。
「だからー、飯食いに行こうと思って」
「こんな時間から、どこに行こうってんだよ。先に食ってろって時間だぞ」
「なんで怒ってんの?」
「いや、怒ってねえよ」
あくまで語調は荒げずに、オズワルドは椅子の法衣を机に移動させてから、腰を下ろす。
「まあ、そこまで腹減ってるわけじゃなくて、お前と飯いきたいなーってぐらいで」
「俺と飯いきたいのに、俺のベッドで半裸で寝てんなよ」
「え? 待てよ。もしかして俺、いま誘ってるってことになってる? その観点、ちょっと新しすぎねえ?」
ロデリックが前のめりになったはずみで、放ったままになっていた彼の本が乱雑に閉じた。しかしそれに構わず、彼はこちらに向かって言った。
「やっと抱かれたくなった?」
オズワルドは眉を寄せる。
「いや、逆じゃない?」
「は? なんで。俺の半裸で、抱きたくなるのはおかしくない?」
「なんでだよ。……いや、もういいわ。お互い何の結論も理解も得られねえわ、この会話」
額に手を当てながら、オズワルドはため息をついた。
この兄を、性的に好きだと自覚してからもう十年以上になる。
ほぼ同時に、兄のほうも自分に対してそうだと知った。けれどそれだけで、話は一向に進まないまま、無駄に年月だけが経っている。
あの頃アコライトだった自分たちは、今では立派な中堅のワーカーホリックだ。年齢も、精神も、大人になっている。
成長しないのは性欲だけだ。成熟しないままの肉体関係が、あまりにもずっと続きすぎているせいで、ときどき頭がちぐはぐな気持ちになる。
(疲れてるんだ)
目元を手で押さえて、オズワルドは自分に言い聞かせる。
(疲れて帰ってきて、ドアを開けたら、好きな奴が半裸で自分のベッドに寝転がってるんだ。思考がぐしゃっとすんのも、おかしいことじゃねえから)
諦めて、自分が抱かれてしまおうかと思った夜は、今日だけじゃない。
好きだ、という言葉にどんどん重みが加わっていっても、何度も何度も口付けをかわしても、どんなに身体を愛撫しても、ぜんぜん上手くセックスができない。性癖も愛情も、全部一致しているのに、性的手法だけが合わないせいで、欲求が溜まる一方だ。
どうでもいいから早くこの男を乱暴に組み敷いて、ぐちゃぐちゃに犯してアンアンに鳴かせてやりたいのに、相手もまったく同じ気持ちなんだからもうどうしようもない状況だ。
(……こんなところまで似てなくていい)
会話が止まってしばらくが経っていた。
頭を抱え込んでいた時間が長かったせいで、ロデリックが訝しげにこちらを覗き込んでいる。
「オズ…?」
もういいよ、と頭では思うのに、体がうまく動かせない。
早く顔をあげて、頭を振って、服を着替えて、食事をしにいって、ワインを飲んで忘れてしまいたい。いっそ飲みまくって、ふらふらに酔って、いつもみたくぐだぐだに愛撫したりしながら、うやむやに寝落ちしてしまいたい。
(俺はまだ、興奮してない。まだ戻れる。まだ大丈夫)
いつの間にか靴を履いたロデリックが、自分の間近まで来て顔を覗き込んでいるのが分かる。
「なあ」
「お前さぁ、かわいいな?」
「……」
うるさい、頼むから黙って服を着てくれ。
2020.05.03