インしないよりベーコンの旨味に似た緑

  クロウが目覚めたとき、時刻は朝だった。鈍く痛い瞼をわずかに開けると、窓枠に区切られた白い光の筋が差し込んでいた。それに照らされたいくつもの塵が、ゆったりと空中を漂っている。もやのかかった視界の中で、同じようにぼんやりした頭のまま、その様子をしばらく眺めながらクロウは、忘れかけている昨夜の夢の内容が、ますます記憶から遠く離れていくのを見送っていた。

 窓からの日差し以外は薄暗い室内を見渡して、だんだんと自分の起床をようやく自覚する。一人だ。同室であるはずのブラックスミスの姿はそこになかった。気だるい身体を起こし、くあとひとつあくびをしてから、クロウは鈍った頭を軽く振る。が、その効果は感じられない。寝ぼけている。そもそも、思考を晴らさねばならない意味も感じられない。


(……だりぃ)


 宿屋での朝はコーヒーを飲むまではいつもこうだった。

 サイドテーブルに投げっぱなしだった法衣をつかんで、クロウは部屋を出る。

 廊下に人の気配はない。

 寝坊したかな、と思った。珍しいことでもない。相方のベッド付近は整えられていたし、部屋に彼の姿もないし、となれば自分が寝すぎていたに決まっている。

 近くに遠征の予定はない。ここ数日のギルドメンバーは思い思いに過ごしていたし、クロウ自身に私用の予定もなかった。

 何も考えずとも、足は自然と一階の食堂に向かう。

なんとなく、朝なのに機嫌が悪くない気がした。頭が重いわりに、気分がスカっとしている。

 夢見が良かったのだろうか。内容はすでにまったく思い出せないけれど。愉快なら、そんなのどうだっていい。

 鼻歌まじりに階段を下りる。しかし、クロウが視界を足元の階段から食堂に移した途端、理由もなかったはずの爽快感の原因が、一気によみがえった。食堂の風景が―テーブルに座るディーユの後ろ姿が―目に入ったせいだ。場所が、昨日と同じ席。急激に記憶の糸がたぐりよせられて、それは一本につながった。


(昨日、ジェンと)


 考えは一気に結末までたどりつき、昨日自分が下した結論が今まったく同じ過程で思い返された。

昨日、昼下がり、この場所で、あの緑頭のウィザードに、声をかけた。それから外を連れまわした。くるくるとうねった髪の毛。興味もなさそうだった瞳。あの眼が、最後は赤い顔をして、じっとクロウを見ていた。掴まれていた腕の感触が今でもちゃんと残っている。そうだ、あれは現実だった。

昨日、ジェンと。


 思い返しながらクロウは、相方のところまでだらだらと歩いていき、向かいの席に腰を下ろした。気づいたディーユが顔をあげる。

「よう」

「……はよ」

 着席したらすぐに、ウエイトレスがクロウのもとへ寄ってくる。その方向にクロウは人差し指を立てて見せ、彼女がそれに親指を立てて返して、モーニングプレートの注文は完了だ。定宿は楽でいい。一通りの日常業務的な所作が終わったところで、ディーユがコーヒーを片手に口を開いた。

「男の趣味変わったな?」


(そら来た)


 彼にこういう絡まれ方をするのは、目に見えていた。なにしろ、昨日はこの食堂のみんなの前でジェナードと寸劇を繰り広げてしまったのだ。結果的に、欲しかったものに手が届いたが、面倒くさい他人の目というデメリットを食らった。

 既に朝食を済ませてしまったらしい相方は、手際よく下げられていく皿に目もくれず、かといってこちらのほうに視線をよこさず、涼しい顔でカップに口をつける。

「拾ってきた犬の次は、本の虫?」

 彼と自分の間には、恋愛ごとを真面目にだったり親身にだったりして語り合う関係は一切、築かれていない。逆に自分が彼のそういったことを目撃したところで、同じようにひやかしていただろう。しかしされて腹が立たないのとは話が別だ。

 この男は、自分だって一度クロウと付き合ったことがあるくせに、クロウの対象をいつも小馬鹿にして楽しんでいる。性格が根本的かつ致命的に、ねじ曲がっているのだ。


(犬と虫ねぇ……)


 とはいっても、その例え方はないな、とクロウは思う。以前付き合っていた相手であるティルトエンドを、犬と表現するのはちょっとどうか。あれはどちらかというと狂犬だ。ぼろぼろにみすぼらしくなってはいたが、あの男の目は刃物だった。

 比べて、ジェナードを本の虫というのもどうだろう。どうにもしっくりこない。おそらく、ディーユと自分では見えている世界が違うのだろうな、とクロウはぼんやり思う。ディーユにとって、ジェナードがそうにしか見えないなら、相方の視界には随分と勿体ないフィルターがかかっている。


「その前の発情したサルよりましだろ」

 とりあえず、まともには考えないで、クロウはいつもの軽口で返すことにした。ディーユはまんざらでもなさそうな様子で、息を短くついて笑った。

「おいおい。俺がいつ、そんなだったよ」

 単純に悪口を言いたかっただけだが、確かに、彼のことだって猿というのはおかしい。発情したうんぬんを置いておいて。でも、だったら発情した何だったのかと考えると、それも思い浮かばない。そもそも発情していたんだろうか。考え出してみるともうそれすらクロウには確信が持てない。ディーユは、なんというか、もっとタチの悪い、自分の欲望を隠すだけの狡猾さを持っているのにときどき優しさのようなものも見せたりする非常に厄介な……。こういう動物って、なんだろう。


(人間じゃん)


 思考が一周し、ばからしいほど単純なところに帰結して、クロウは面倒くさくなり、頭の中の言葉を一旦放棄した。

 だいたい、クロウがどんな男の趣味をしていようが、それが変わろうが何しようが、相方にはまったく関係のないことだ。そういう間柄になりたかったからこそ、別れたわけだ。

「俺はまともな恋愛がしてーんだよ」

 火遊びのような恋愛しかしない相方に、クロウは皮肉をこめつつ当てこするような物言いをしてみせる。彼はそれをさらりと受け流して、相変わらずの顔をしていた。

「だからって、アレねえ」

「うっせえな」

「新人をねえ」

「黙れよ」

 そう言われてみれば、ジェナードはギルドの新人だった。指摘されるまで、クロウはそんなこと考えてもいなかった。

 ついこのあいだ、カリシュが入ってきたばかりの新人に手を出したと周りから散々に非難されているのを、遠巻きに見ていたところだった。ジェナードとこういうことになってしまったということは、クロウもあっちの一員になったのだろうか。それはなんだか不快だ、とクロウは思う。

「いや、っていうか、アイツもあのクソ殴りプリの被害者みたいなもんだろ、ある意味」

 カリシュの相手であるウィザードの女は、ジェナードと同郷のフィオナだ。彼らを眺めているジェナードの瞳が、なにか物言いたげだったのを、クロウは知っている。『そういうことね』と初めは思っていたけれど、ではそれが一体『どういうこと』なのか、本当の意味では知らない自分に、ある日突然気が付いた。目の前でジェナードを見ていると、そういう気持ちになったのだ。

「はは。そこな」

 ディーユは浅く笑い、クロウはため息をつく。

「別に俺はさいしょっから取って食おうとしたわけじゃねえし」

 そんなつもりはなかった、と思う。なかった。なかったか? たぶん、なかった。本当か。たぶん。

「でも取って食っちまったじゃん」

 クロウが自問自答している隙に、ディーユの横槍がわき腹を突いてくる。瞬発的にムッとしてクロウは言い返した。

「まだ食ってねえよ」

「あれ? なんだよ。俺、昨日はよそ泊まったのに」

「はあ??」

 なるほど、だからこの男は今朝、部屋にいなかったのか。

「大きなお世話すぎんだろ」

「ほら、俺って気が利くから」

「? 誰が下ネタ大好きだって?」

「耳どうなってんだよ、一文字もあってねえよ」

 ディーユの言葉も適当にあしらって、クロウは頬杖をつく。だいたい、目の前のこの男は、相方の恋愛事情に配慮したふりをしながら、結局は、自分がよそに泊まりたかっただけだろう。泊まろうと思えば簡単にとまれるよそのあてが、有り余るわけだ、このブラックスミスには。そんな男に恋愛のことをどうこう言われたくない。昨日のクロウは半ば冗談でジェナードにあんなことを言ったが、もしディーユだったら本当にあのタイミングで『初夜をキメた』に違いないのだ。考えただけで勝手に舌打ちが出る。


「つーか、お前の基準で人のこと気軽にベッドインさせないでもらえます?」

「ベッドインしない大人のまともな恋愛って、逆になんなんですかね?」

「インしねえっつってんじゃねえのよ、お前の速度でちんこをインすんなって言ってんの、わかる?」

「それだって、自分はすーぐインされたがるわりに、口では真面目ぶるね、お前は」

 クロウが怒鳴り返そうとしたとき、目の前に朝食のプレートが置かれた。ウエイトレスは「朝から相変わらずねえ」と苦笑しながらもその場にとどまらず颯爽と去っていく。目の前の食事にいったん気が向いて、クロウは眉間に皺を寄せながらナイフとフォークを手に取った。サラダにグレープフルーツ、ベーコン2枚とスクランブルエッグに四角のバター、それから何か赤い実が混ぜ練られ焼かれたらしいベーグルが、一皿にまとめて盛り付けられている。

 中断されたせいで曖昧になった怒りの中で、肉厚のベーコンにナイフを入れて、それでもクロウの頭の中には言葉が散らかった。


(してねえし。いやするけど。百歩譲って俺がしたところで、んなことお前に言われる筋合いなんてWIZのLUKよりねえから。あ~クソ、ヤリチンのくせに頭だけは回りやがる。脳ミソまでちんこに支配されて咽び泣けばいいのに)


 自分が弱いのか、それとも相方が強すぎるのか、ディーユにはどうにも口で勝てない。


(つーかジェンはそんなんじゃねーし。あいつはもっとかわいいし。犬でも猫でも虫でもねえ。あんなかわいいもじゃもじゃを、食うことしか考えないって、やっぱりコイツ頭おかしいんじゃね? すでに脳ミソちんこじゃね? 大病じゃん。墓石にそう刻んでやるよ!)


 脳内で散々に罵ってからわずかばかり留飲を下げつつ咀嚼したベーコンは、いくぶんか美味かった。肉汁の旨さに引っ張られて、心も少し軽くなってくる。


 そうだ、こんなヤツ、今はどうだっていい。そんなことより、あいつだ。あのウィザードの、緑のもじゃもじゃだ。あれは昨日、クロウのものになった。そう、彼が自分で言った。冗談で逃げられるようにしてやったのに、わざわざ撤回してまで、クロウの手を掴んできた。あの時のジェナードの顔、赤らんだ頬、上昇した呼吸。

ああ、噛みしめるほどにベーコンが美味い。

 ディーユと今しているこんな会話だって、あのウィザードが聞いたら腐ったものを見るみたいな目をすることだろう。あまりにも容易に想像ができて、片頬に笑みがとまらない。


(かあいい)


 ジェナードは、もう自分のテリトリーの内側に入った。これから彼が自分と何をしたいのか、詳細は全然はっきりしていないのに、自分が彼と繋がりを持っていることが、今はなんだか無性に楽しい。あいつは近いうちに必ず俺のものになるし、俺はあいつのものになる。そう考えただけで、好奇心にも似た喜びが胸を占有する。

 早くもっと近づきたい。そうなることが分かっているのに、待ちきれない思いがする。もっと近づいて、あの赤い服の胸に自分の額を押し当てて、思いっきり息を吸い込みたい。さぞかしいい匂いがするだろう。そして、その匂いがいつかは自分の匂いになるのだ。楽しみで仕方ない。


(エロい意味じゃなくて)


 前の席に座るディーユに内心だけで言い訳をしながら、クロウは彼から視線をそらした。

 今朝からずっと続いている不思議な気分の良さは、昨晩のこれが原因だったんだろう。理由がわかって頭も段々と晴れはじめてきた。なんとなく上を眺めると天井に近い窓から白い光が差し込んできているのが見えた。ああ、今日もいい天気だ。そして丸一日、予定はない。最高じゃないか。


 ふいに視界のすみで、くだんの緑色がよぎった。階段に目をやれば、昨日より少しふわふわした髪のジェナードが控えめな足音と共に食堂へと降りてくる最中だった。


(来た)


 目を合わせたら彼は何と言うだろうか。名前を呼べば、どんな顔をするだろうか。

 せりあがった期待に、もうさっきまでの胸糞悪い会話なんてすっかり忘れてしまって、クロウは大きく片手を上げた。昨日のあれは、どうなったんだろう。今日はこれから、どうなるんだろう。何も分からないのに、すべてが好転する予感しかしない。

 名を呼ぶのが、どうしたって楽しみだ。


「ジェン!」



2019.08.04